Prunus avium

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しかしそれが普通でもあり特別でもあることに娘は気づかなかった。娘の目からは普通の光景のように、しかし心の内に違和感を常に感じそれに悶えながら走っている感覚だった。しだいに雲の穴から黒、橙、緑、赤、桃、水、肌色が不規則に入り交じった球形の物体が現れた。それは娘の身体ほどの大きさだった。娘は何なのかと不思議に思いつつも、それの正体を実は知っていて、しかし中々触れようとしなかった。いや触れる勇気がなかった。それは眼をはなすことができない物体だったが、儚く見え、触れると壊れてしまうのではないかと思った。それ故娘は、出そうとする手を何度も引っ込めた。気がつくと、すでにその物体を通り過ぎてしまっていた。触れることもなく。 娘は小さな自分の手を見た。そして後ろを振り返ってみた。もうあの物体は見えないほど遠くになってしまった。娘はぞっと背筋を振るわせた。その瞬間、先程まで空を覆い被していた雨雲は開け、かんかんの太陽が姿を現し、熱と光を大量に含んだエネルギー砲を娘に放射した。すると雨でできた娘の羽は蒸発し、瞬く間に娘は落下した。その活きよいは凄まじく、空気が彼女の白い皮膚を磨り減らし、所々カマイタチの如く切りつけた。また太陽の熱が娘の皮膚を燃やし火傷を負わした。ここで初めて娘は気がついた。自分が空を飛んでいたことに。あの球体に触れることの意味と大切さに。娘は再び落下しながら自分の小さな手と、そして振り返ってあの球体があったであろう方向を見た。しかしもう遅かった。娘は落下しながら全身に激痛を覚えた。切り傷と火傷した皮膚から灰色のものが根っこのように体内まで浸食していき、ペルソナ界への門をこじ開けて、中へといきよいよく流入していった。痛い、痛い、イタイ。
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