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生物室はわたしが来た時のままだった。カーテンを両脇に集めて開けた窓から風が吹き込んできて、カーテンの裾が揺れるほか、使われていない机や棚などに降り積もっていたほこりが舞った。白っぽい空気を吸い込んでしまい、鼻がむずむずした。
わたしは鼻をすすりながら、窓と黒板に近い一角へ歩み寄る。黒塗りの机は室内に六つあり、窓際のその一つだけ、水拭きをして使えるようにした。そこへ音を立てないよう、そっと瓶を載せる。もちろん、彼の後頭部を窓に向けて。
彼の黒い髪がてらてらと光った。液体は無色透明だった。
「まぶしいな」
「ここに来た時、まだお昼前でしたから」
「授業はないのか?」
「テスト期間中なので、午前中で終わりなんです」
「懐かしい単語だな」
室内に入った日差しで目を慣らし終えたのか、窓のほうに顔を向けてくれと彼が言った。素直に従って、瓶をくるりと反転させる。彼はまぶしそうに目を細め、口角を持ち上げた。
「明るい」
いつから彼があそこにいるのか分からないが、ずいぶんと久しぶりのようだった。何となく、わたしと同じ時期を生きているようには思えなかった。
空か、揺れる草木か、それとも黄ばんだカーテンの裾か、彼はしばらく外に目をやっていた。流れた時間を読むように、照らし合わせるように。そのあと、そばにいるわたしを見た。光りを浴びた茶色の目が、赤くなっていた。
「どうだ、俺は」
「どうって」
「顔だよ、顔。きみから見ても、俺は美しいだろうか」
見ろ、とばかりに顎をのけ反らせた。細く、筋の通った鼻がつんと上を向く。しっとりと柔らかそうな唇は口角をきゅっと引き締め、ほんのり笑みを浮かべていた。人に見られ慣れているふうな、堂々とした態度だった。
「美しい、です」
「棒読みだな。きみ、あまり口が上手くないだろう」
唇を尖らせて、わたしを睨む。
「でも、美しいから標本になったって言うんだから、わたしに聞かなくても」
「人に聞くことが大事なんだよ。美しいと言われれば、俺の気分が良くなる。きみにも優しくなれて良いこと尽くしだぞ」
何と返せばいいのか迷ったすえ、わたしは口を閉じた。彼はわたしのことなどお構いなしなのか、そう反応されることを読んでいたのか、笑みを深めた。
「どうやらきみは俺から逃げそうにないから、自己紹介くらいしておこうか。俺は宮本秀一という。ありふれた名前だが、秀才の秀の字がもっとも際立つと思わないか」
「宮本、秀一」
彼は、宮本秀一は表情を変えない。
「きみの名前は?」
一瞬、喉の奥で言葉が混ざった。思い当たる文字がすべて、一気にあふれだしそうになって、口から吐く言葉がぐちゃぐちゃになりそうだった。静かに視線を寄越す彼は、黙ってわたしを待つだけだ。指摘することも、笑うこともなかった。
最初の一文字を噛み砕くように、わたしはゆっくり喉を鳴らす。どうしてすぐ名前を言えないのか、分からなかった。むずかしい発音でもないのに、一瞬、わたしは迷った子どもような反応をしてしまった。
「山村、かおりです」
「山村かおり」
何度か反復され、わたしはうなずきながら唇を噛む。珍しいところなど一つもないだろうに、彼は語感を楽しむように、居心地悪く感じてしまうほど、わたしの名前を紡ぐ。
「きみは普段なんて呼ばれているんだ? 俺もそう呼ぼう」
「山村さんとか、かおりとか……普通、なんですけど」
彼は目を細めた。
「かおり、と呼ぼうか。音の粒がきっちりそろった、実に呼びやすい名前だな」
ありがとうございます、と細い声で返せば、彼はふたたび「かおり」と呼んだ。
「その薄っぺらい機器はなんだ。液晶……テレビにしては小さいな」
わたしはカバンの横に置いてあるスマートフォンを手元へ引き寄せた。ついでに電源を入れて、時間を確認する。昼を過ぎていた。
「これ、スマートフォンって言って、携帯電話です。知りませんか」
「ああ、あの重たい電話か。今じゃこんなに小さくなったのか」
「宮本さんは、いつからあそこに」
かざして見せていたスマホの液晶からわたしへ、彼の目が動く。
「知りたいか?」
もったいぶるような、間があった。
「大丈夫でしたか」
「何が」
「その、聞いても」
「構わないよ。何なら調べてもいい。図書室にいけば、過去の卒業アルバムくらい残っているんじゃないか」
彼はもう一度スマホへ目をやっていたが、誰も画面に触れなかったので電源が落ちていた。瓶越しに暗い画面をまじまじと見つめ、やがて息を吐きだす。
「ああ、俺はまったく変わっていないんだな。保存液のおかげなのか」
「鏡、見ますか」
つい提案してみたことだったのだけれど、思いのほか喜んでくれていた。カバンから折り畳み式のコンパクトミラーを出して、彼の顔の真正面にくるように固定した。鏡そのままだと少し上向きになってしまったため、校舎へ持ち運ぶ予定の内臓の模型で支えると、ちょうどよかった。それは少し汚れていたが、割れたりも欠けたりもしておらず、磨けばそれなりにいい見本として使えるのではと思ったものだ。重さもずっしりとして安っぽさがなく、手にほどよく馴染んだ。
彼は鏡に映る自分を眺めながら、わたしへいくつか質問をした。今がいつなのか、というのを細かく分けて。西暦、月日。夏休みのための終業式の日。それからテスト期間について。
「おそらく、俺は四十年前くらい前の生徒だな。この校舎がなくなるのも納得できる」
はっきりとした骨格を薄く彩る肉感を、彼は満足げに確かめていた。男性的で、弾力はなさそうだけれど、ふわふわと柔らかそうな頬を、鏡へさらけだす。
「……わたしの両親より年上なんですね」
「やめてくれ。今や俺は永遠の十八だぞ。先輩にしてくれ」
「先輩は、頭が良さそうですね」
カバンから取り出した教科書やノートを机に広げれば、彼は微笑む。
「そう思うとおり、俺は顔も良ければ頭も良い。ついでに運動も完璧だぞ。きみが望み、頼むなら手伝ってもいい」
「じゃあ、お願いします。明日数学のテストがあるんですけど、苦手で」
「まあ、正直に言うと履修範囲やら時代の流れで、今の数学と違うところもあるだろうがな。教科書を読ませてくれるか」
じっと見つめられて、わたしは彼のガラス瓶を引き寄せる。最初は並ぶように横へ置いたのだけれど、肘が窮屈だったので、わたしの上半身と腕で覆うようにした。彼の後頭部と、すきまなく閉じられた瓶の奥から、わたしも教科書を眺めた。
「一年生か。この範囲なら余裕だな。それほどむずかしくはないよ」
彼が喋ると、中の液体が震えるようだった。水中で空気を吐くと、重たげな泡がふつふつと湧いた。
テスト範囲であるところの数式を使い、いくつか問題を解く。ノートに走らせるシャーペンの芯が紡ぐ数字を、彼は見届ける。わたしが詰まったり、聞いたりすれば、彼は素直にヒントをくれた。
考えながら、わたしは食事を挟んだ。レタスとハムのサンドイッチだったのだけれど、昼にすぐ食べられなかったこともあり、なまぬるく、レタスは青臭さけを残していた。
ながら勉強というのたまにはいい。しかし彼が見てくれている中で自分だけが食べているというのは、変だった。食べ終わらせたいのだけれど、なかなか喉を通らなかった。ちびちびと食べ進めていれば、彼を包む液体がわたしの名前で震えた。
「明日もくるのか?」
「きても、いいんですよね? というよりここで仕事があるので、いかないってわけにもいかないんですけど」
「ああ、すまない。言い方が悪かったな。明日もきてくれ。こうして誰かと話すのも久しぶりなんだ。楽しかった」
わたしは口に入れたサンドイッチを、ゆっくり歯でつぶしてゆく。
「宮本さんと話すの、楽しかったです。緊張はしたけど……怖がる暇は与えてくれなかったから、なんかびっくりしてます」
「怖いのなら逃げてもよかったが。ただ、俺のことなんて話したところできみの気が狂ったと噂されるか、好奇心に駆られた誰かが俺を見つけて大騒ぎするかだろうな。生首の瓶詰めなんてものがつきまとえば、おちおち静かな高校生活は送れないな」
脅されたようだった。わたしは彼が収まった瓶にぐるりと腕を回し、蓋に顎
を載せる。ていのいいクッションのような扱いをしてしまったが、彼は特に指摘せず、瓶の中で動きもしなかった。
きっと、彼をほかの人に言いふらすことはないだろう。それこそ彼が言ったように、精神的におかしい生徒だと思われかねない。大ごとにしたあとのことなんて、考えたくもなかった。
静かに、誰にも知らせずに、こうして二人で秘密を共有するくらいが、一番収まりがいい。
「明日も楽しみにしておこう。念のため、きみが帰る前に床下へ戻してくれよ」
「それは、もちろんです」
ふと、床下のことを思い出す。あこにはもう一つあったはずだ。
「……床下の、あの瓶は」
「さあな。一つ言えるのは、あれはもはやただの人の脳みその標本ってだけかな」
「知らないんですか?」
「どうかな」
すげなく返されてしまい、それ以上の詮索はよくないだろうと口を閉じる。彼がそう言うなら、そうなのだ。わたしも知らないまま。それで終わりにするべきだろう。
そう思うのに、頭の中では、暗闇に沈んだあの瓶が浮かび上がる。彼と同じ瓶で、彼と同じ液体に包まれて。ただ一つ違うのは、彼は喋る生首で、あれは剥き出しの脳みそ。ピンクの、ゴムのような。
少し下で、宮本秀一の黒い髪がふわふわと漂っていた。
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