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「どうして自分は平気なのか、思い当たることはあるか?」  わたしをまっすぐ見つめていた。その表情には笑みが浮かんでいて、わたしの反応を楽しむような、少しだけ意地悪そうな色を帯びていた。液体に浸かった両目は、ゆっくり、液体を巻き込んでまばたきする。 「ふふ、まあそう怯えるなよ。おそらく球根のものは希釈されていて、濃度が薄かったんだろう。だからきみは何ともなかった、ということだ」  思わず目をふせれば、彼は声を出して笑った。 「目力が強かったか? ふふふ。きみがどう思っているのか知らないが、生首の俺に何かできると思うか? きみに触れる手段がない。手がないだけに」 「……まあ、そうですよね」 「きみって真面目だろ? 返しが単調だな。そういうノリを求めているわけではないからいいんだけどな。何だって。生首相手に冷静でいられるだけ上出来だよ」 「あの、当時のこととか聞いてもいいですか」  彼は少し言葉を詰まらせたようだったが、すぐにうなずいた。 「何が聞きたい? そういえば、俺について調べたこととかあるのか?」 「いえ……図書室でしたよね?」 「そうそう、アルバムだ。それを見たほうが想像しやすいだろうな」  うしろの窓から風が吹き込んできて、わたしの髪を揺らした。顔にかかる髪をよけながら、首筋を押さえた。旧校舎の外壁は森に覆われているせいか、いつもの校舎より涼しい気がした。  勉強せずに雑談なんかしていいのか、と彼が言った。明日のテストが苦手な教科だったらそんな暇などなかっただろうけれど、あいにく明日はそこそこ得意な文系だった。古文は復習するとして、現代国語については特にすることはない。というより、現国の勉強の仕方が分からないのだけれども。  そのことを伝えれば彼は少し笑って、確かにそうだなと肯定した。 「まず、なぜ俺が標本になったか覚えているか」  宮本秀一という青年の、生首の標本。 「美しいからって」 「ああ、そうだ。俺は美しいからな。言ってしまえば痴情のもつれというやつだね。生物教師とそういう関係を持っていて、卒業間際にはこの状態だったんだろう。詳しい日づけまでは覚えていないよ」  昔話を孫に聞かせるような穏やかさで、彼は言ってのけた。生物教師が卒業という別れる日を恐れるあまり、彼に手をかけた。そんなことを、彼はお喋りのための一つの話題のようにわたしへ聞かせる。 「彼女、俺に首ったけだったんだよ。生首だけに。……おい、そんな冷めた目をするな。俺なりに明るい空気にしようとしてだな」 「その先生と、以降もつき合うきはなかったんですか。卒業だったなら、それまで誰にも知られていなかったんですよね?」  言ってから、わたしは吐き出した言葉を喉に戻そうと息を呑んだ。静かにわたしを見据える茶色の双眸が、どことなく冷たく、睨むようなそれだった。  膝に載せた手を握りしめ、胸がすくような汗を耐える。身体の中にはたくさんのものが詰まっているはずなのに、すべてを掻き出され、空っぽにされてしまったような気分だった。それなのに真ん中にある心臓は、そこが空洞でないことを主張する。  逸らした目をふたたび彼へと向ける。彼は目をふせていた。自分の首を見ているのか、じっと瓶の底へ落としていた。  喋ろうとして口を開けてみたが、そこから声は出なかった。掛けようとした言葉がすべて喉に張りついて、枯れた花びらのように腐り落ちてゆくようだった。  わたしが何もできずにいたところ、彼は口元に笑みをかたどった。液体が絡みつき、浮遊した前髪の奥で、眉はゆがんでいた。 「ああ、いや、怖がらせるつもりはないんだ。すまない。当時のことを思い出してしまった」 「……いえ。わたしこそ、すみませんでした」 「きみが謝る必要はないよ。確かに、俺と教師の関係は誰にも気づかれていなかった。……いや、知っていて、誰も何も言わなかっただけかもしれないが」  瓶の表面を撫で、そこについたほこりや空気、彼から溶け出した一部を数えるような重たい目が、わたしを射抜いていた。 「教師のことは好きだった、かもしれない。そうではなかったかもしれない。どちらにせよ、俺は恋愛感情を持ち合わせているわけではなかった。真面目なきみには理解できないだろうし、したいとも思わないだろうが……ただ、何か一途に想い、ほかを切り捨てたところは似ていたな。彼女との関係は暇つぶしだと言ったら、きみは俺を軽蔑するだろうね」  わたしも同じように、瓶の表面を見つめた。 「でも、わたしには関係ないことだし……その時、わたしはこの世にすらいなかったですから」 「好きな人がいた。教師じゃなくて、別の」  彼の唇はすべての文字を、はっきりと粒にした。 「その人は同級生だったけど、手が届かなかった」 「美しいのに、ですか」 「彼女はとても優等生だったからな。見た目の美醜なんて、そもそも意味がなかっただろうね。遊びほうけてばかりの不良学生には雲の上だ」 「先生のほかにもいたんですか。その、つき合ってる人とか」 「きみの想像にお任せしよう」  先ほどの気迫せまる表情は消え、彼はいつも浮かべる笑顔を見せる。  彼の話がどうであれ、昔のことをとやかく言う気にはならなかった。彼が真面目だとか、本当は不良だとか、今の彼しか知らないわたしには、どこか絵空事のようでさえあった。少なくともわたしが知る宮本秀一は、ホルマリンを吸って倒れたわたしを気遣ったり、自身の容姿に絶対的な自信を持つ変な人だったり、勉強を教えてくれたり、とうてい不良とは思えなかった。  生首だから、遊べないだけかもしれないが。彼はガラスの瓶の中で、液体に包まれたまま、ただじっとしていることしかできないのだから。 「その瓶から、出たいと思ったことはないんですか。わたしを丸め込むことくらい、できそうだけれど」 「俺はここから出たい」  肩が揺れた。 「なんて、何をしでかすか分からない、生きているのか死んでいるのかすらあいまいな生首を、きみは野放しにできるか? 俺だったら恐ろしくてできないけど」  彼に身体があったなら、今の彼はわざとらしく肩をすくめてみせたかもしれない。しかしわたしにはそうする前の、彼の言葉が本当か嘘か分からなかった。真に受けてしまって、笑ったり、怒ったりすることさえもできなかった。 「もしきみが俺を出すとして、だ。俺は正直なところ、まだどちらでもいいんだ。生首に生きる道などないからな。誰かの身体を借りられるのなら、また話は変わってくるかもしれないが――ああ、いや。この俺にふさわしい身体なんて、あるだろうか」
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