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水より濃度が高そうな液体の中で、彼はわたしを見つめていた。
ただの水中でも目を開けておくことは痛みをともなうし、視界だってぼやけてよく見えない。それなのに、彼は、まっすぐわたしに視線を寄越した。
わたしの見間違いで、それの中は液体ではなく、空気で満ちているのかもしれない。そう思いかけたけれど、まばたきの合間にまつげが前髪にぶつかったのか、ほんの少し宙をさまよって前を隠そうとした髪の毛に対し、彼はわずらわしげに眉をしかめた。
わたしと彼がいるところは、四畳半ほどの小さな部屋だ。わたしと同じ条件の場所にいるならば、髪の毛は自力で浮かない。
ふわふわと漂う髪の毛を忌々しそうにしていても、わたしに彼を助けることなどできない。
わたしは外れた床から下へと身を乗り出し、彼に両手をのばした。いや、正確にいうなら、彼ではない。彼が入ったガラス瓶だ。
彼は、生首だった。
人の頭が丸々一つ詰まるほどの大きさの円柱の瓶に、彼は液体とともに収まっていた。彼がそこにいなかったなら、両手で抱え持たないといけない大きさの瓶、としか思わなかっただろう。
「人の頭は重いぞ。先ほど落としたもののように、誤って俺を落としたりするなよ」
瓶の中からくぐもった声が瓶を包む手のひらに伝わり、震えた。
わたしはうなずき返しながら、もう少しだけ這いつくばった身体を床へと押しつける。外れた床の輪郭に腰骨が引っ掛かるようにずらし、上体を穴底へと傾けた。彼の瓶を斜めに支えて、底に手のひらを滑り込ませた。
一息に持ち上げようとしたその時、視界の端でもう一つの瓶を見つけた。室内に電気はなく、天井近くの細長い窓からの日差しが頼りだった。ほとんどが暗がりの中なので、穴こそ暗闇に沈んでいた。外れた床の分だけが四角く切り取られたように光りを差しているものの、周りは影になっていてよく見えない。
しかし、わたしは確かに見たと思う。彼と同じ瓶で、中には丸い何かが詰められているようだった。
そのことを伝えようか迷ったけれど、持ち上げた彼の瞳を真正面に捉える頃だった。液体の中の彼の輪郭はゆがんでいて、はっきりと縁どることはできそうになかった。それでも明るい茶色を帯びた瞳は、わたしのことをしっかり認識しているようだった。
「あれはいらない。ただの脳みそだ」
脳みそ。
「っおい! しっかり持ってくれ、今落としかけただろう」
「す、すみません……」
「頼むから気をつけてくれよ。俺は美しい青年の標本なのだから」
彼を穴から床の上へと移す。這いつくばったまま、わたしは同じ高さにある彼を見つめてみた。
「なんだ。ああ。きみも俺の美しさに見惚れたのかな? 結構、結構。飽きるまで見るがいいさ。いや飽きることなんてないだろう」
うしろの開いた扉から漏れる光りが、彼を照らす。輪郭はやはりゆがんで見えたが、明るいところで近くから見る彼に、わたしは思わず息を詰めた。
彼は、綺麗だった。
黒い髪は液体が絡みついているせいか、濡れて光りを集め、シャボン玉のように不思議な色を反射していた。その下にある顔は、丁寧に削り上げられた彫刻のようだった。作り物めいた彼の容貌を、意志の強そうな切れ長の目が、彼を人として生かしていた。
瓶に触れる。わたしの体温でなまぬるくなっている部分と、無機質な冷たさを感じる部分とがあった。
「俺からこんなことを聞くのはおかしな話だが、きみ、俺が怖くないのか?」
表面にぴたりとくっつけたわたしの手のひらを、彼は横目で眺めていた。普通にしていれば見えない場所をまじまじと観察されるのは、むずがゆい。そっと手を放し、うつぶせに寝転がった身体を起こした。
何となく正座をしてみたのだけれど、彼はわたしの膝あたりに視線を投げ、唇を引き結んだ。
「俺の目線のことを考えて動いてくれないか。見られてもいいなら構わないけれど」
理解が追いつかなくて、わたしは何度かまばたきした。
「スカート。スパッツも、まあいいだろう」
続いた言葉を聞き、咄嗟にスカートの裾を引っ張った。硬い生地のそれは決まった形、長さから変わることはない。標準的な長さで穿いているスカートは、正座する膝頭を覆い隠し、床をこすった。
「そんなことより、だ。きみは落ち着いているが、俺に対して思うことはないのか?」
「思うこと、って。その、生首……とか、話してる、とか。そういう」
「それ以外にあるか」
低く、ひそめた声など、彼は気にしてもいないようだった。彼は顎を少し上げ、わたしを見上げる。顎の下には途切れた首しかないせいか、その動作はわたしから見てもぎこちなかった。前髪のすきまからこちらを見る彼を、わたしはふたたび持ち上げた。
彼は驚いたふうに目を丸くしたが、やめてくれとも、触るなとも言わなかった。
「あ、きみ、先ほど瓶を割ったんだな? ガラスと液体の飛び散る音が床下に響いて、ものすごくうるさかった」
「それは、すみません。びっくりして」
自分の横で散らばったそれに目を移す。大きなかけらで散らばったガラス、木材の床を黒くにじませ、四角いタイルのすきまへ流れた液体。瓶に閉じ込められていた、何かの球根。
ふと、空気に混ざって立ち昇ってくるにおいに、鼻と口とを覆い隠す。
「ホルマリンは体内に取り込むと危険だぞ」
膝に載せた彼が言う。
「きみ、自分がしばらく意識を飛ばしていたことを、まさか忘れてなどいないな?」
「……わたし、倒れていたんですか?」
「漫画のようなセリフはよしてくれ。その床にこぼれた液体、人体には毒だぞ。ひとまずこの狭い部屋を出てくれないか。俺も一緒にだ」
「いいんですか? あなたを出しても」
「ほかに人はいないんだろう? きみもほこりだらけだし、もう使われていないんじゃないのか?」
彼の言うとおり、ここは旧校舎だった。数十年前に今の校舎が建てられて以来、ここを訪れる人はほとんどいない、というのを先生から聞いた。
そんな場所にわたしがいるのは、生物教師から仕事をもらったからだ。
「この校舎、夏休み中に取り壊されるんです。それで、わたしは先生の代わりに生物室の使えそうな備品を運び出しに」
「生徒だよな?」
「はい。先生、テスト期間中で忙しくしているので」
「そうか。なら問題ないな」
わたしは膝の彼を抱き込み、立ち上がった。
「明るいところ、大丈夫ですか」
「大丈夫……と言いたいところだが、少し目を閉じさせてくれ。慣らさないと目をやられそうだな」
腕の中で彼が目蓋を下ろしたところを見届けて、わたしは生物準備室から出た。
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