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旧校舎の生物準備室で彼と出会った翌日、わたしは一度、現校舎のほうの生物室に寄った。
静まり返った室内には生物教師が一人いた。黒板を背にして教卓へ向き合い、本体が赤いペンを動かしていた。
「先生、今入っても大丈夫ですか」
扉から中をのぞき込んで声を掛ければ、先生は顔を上げた。顔の半分を覆う、大きくて白いマスクをつけた顔。
先生はいつもマスクをつけている。今年から高校教師になった新任らしいが、先生が紹介されただろう登校日には、わたしはまだ中学最後の春休みだった。さすがにその日はマスクをつけていない先生の素顔を見られたのかもしれない。わたしは先生の顔をよく覚えていない。いや、まだ見たことすらないのかもしれなかった。
「三年生の採点ですから大丈夫ですよ。たぶん」
あいまいな返事だった。学年が違うとはいえ、採点中のところを近寄るのは気が引けてしまい、しばらくわたしは部屋へ入れずにいた。先生は答案用紙を裏返しにふせ、わたしへもう一度声を掛けてくれた。
口の先で失礼しますとつぶやきながら、生物室内へと足を踏み入れる。人が出入りするため、旧校舎のようなほこりやカビ臭さはない。教壇の隅に立った人体模型も定期的に手入れされているのか、わたしの頭の中に浮かんだあの内臓の模型の汚さが目立った。
「どうしました?」
「旧校舎のものについてで。あの、使えそうなものなら何でもいいって言いましたけど、本当に何でもいいのか不安になって」
「構いませんよ。模型でも、試験管でも。ああ、でも。化学薬品のものは使えそうになくても持ってきてほしいです。こちらで処分しないと」
今さらになって旧校舎の掃除をしなければいけないのは、生物室だけらしかった。前任の生物教師は定年間近の先生で、旧校舎に手を入れるを面倒くさがり、後回しにしていたようだ。文系の資料室や音楽室などのほかの部屋は、机や椅子、備え付けのロッカーしか残っていないのだとか。それらの鍵は渡されていないので、確認する術はないのだけれど。
「処分……」
「誰も気づきやしないと思いますけど、万が一、人に悪影響な物質が流れてしまう責任は負いたくないですから」
「それ、運べなかったわたしのせいにもなるんですか?」
先生は微笑んだ。
「先生、わたし、先に謝りたいことがあって」
「なんでしょう? タイミング的に、旧校舎でやらかしたんですか?」
「たぶん、その、薬品? のものを落としてしまって」
「あなたに影響はありませんでした? ないならそれでいいんですよ。なんだろう、生物室にある薬品といえばホルムアルデヒド水溶液くらいですけど」
「ホルム?」
「標本に使う液体です。生物や組織片の防腐、そのままの様子を維持するためのものです。人体には毒性が強く、刺激臭も強く、接触したら刺激を受けるし炎症も起きます。気化したものを吸い込むのも危ないんです」
唯一表情をうかがえる目が、わたしを見つめる。ほどよく清潔感のある短い前髪のすきまから、黒目がちな瞳がわたしの顔、首、露出した部分を観察していった。見られているという圧迫感はあれど、そこに性的な雰囲気をにおわせるものはなく、わたしはじっとしていた。
「うーん、見たところ平気そうですね。目蓋の裏を見てもいいですか?」
うなずくと、先生の手が目元へのびてきた。驚いて目をつぶってしまったけれど、先生は気にせず、下目蓋を優しく押し下げた。指の腹の、かさかさとした感触。冷房が効いているからか、指先は少し冷たかった。
「問題なし。すぐ逃げたのかな」
手を放し、先生は笑った。
肯定も否定もできなかったので、あいまいに笑い返した。正直なところ、覚えていなかった。しかしあそこの床下にいた彼が、わたしは意識を飛ばしていたという。先生の言ったことが本当ならば、今頃、わたしの身体は不調を訴え、異変を感じているだろう。
痛みなど、ない。
先生の指が、床を指す。男の人にしては綺麗だった。わたしのクラス担任の
指はもっと、ソーセージのように太く、ガタガタにゆがんだ節で、爪の形がひどい。父の手も似たようなもので、男の人の手はそういうものだと思っていた。それだけに先生の華奢でありながら、わたしにはないごつごつとした骨感
に、どきりとする。
「何を落としたんです?」
「瓶詰めにされた球根の、標本だったかと。瓶が割れて、中の液体がこぼれてしまいました」
「なるほど。そこにもう一度入らないといけないことはある? 場所は生物室?」
「奥の部屋です。生物準備室」
「じゃあ、そこにはもういかなくていいですよ。その部屋は先生があとで何とかするので、山村さんは生物室にあるものをお願いします」
「……分かりました」
「旧校舎での勉強はどうです? はかどりますか」
わたしはうなずいた。
「はい」
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