あなたから僕が消えたら

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僕は診察室に向かい廊下を歩いた。背負っているリュックを下ろすと、襟元をばたつかせてから汗を拭く。一呼吸置いてからドアをノックする。 「はい、どうぞ」先生の返事。 「失礼します」 「暑かったでしょう。ほら、座って座って」  椅子に座るよう促された僕はもう一度「失礼します」と言い腰をおろす。 「どう? 最近の調子は」 「はい、えーと、薬は効いていると思います。けど、なんていうか、ただ……」 「ただ? どうしたの」先生はきく。 「考え方が変わらないんです。もうなんだか、なんとも言えなくて」 「……それは、薬が効いていない、からですね」先生は言う。 「はあ。けど、薬は飲んでますよ?」 「うん、やっぱり心の問題ですからね。薬を飲んだら治るかって言われたら、確実とは言えませんから」先生はぶすっと答える。  僕は下唇を噛みながら先生をじろじろと見る。ぶすっとした先生の態度に苛立ちを覚えたのではなく、いつも優しく僕の話をきいてくれた先生が機嫌を悪くしているのでどうすればいいか分からないのだ。 「そう、ですよね。けど、前よりは眠れるようになったんです。あの、先生のおかげです」僕は必至だ。 「あ、ううん。ごめんね、ちょっと投げやりだったね」先生は焦って答える。  焦って答える先生も初めて見た……。僕は唇を噛むのをやめられない。 「な、なにか、なにかあったんですか…」 …………沈黙。 「うん、あのね。佐々波君に、お願いがあるの」先生は両手で自身の腿を抑える。先生がどこを見ているかは分からない。 「お願いって、なんですか?」力のない声で僕は言う。 「……助けて」 「…え?」 「助けてほしいの……。お願い……」  先生にできなくて僕にできることは、一つしかない。だから、助けを求められたこの瞬間に、僕はまた消えることになるのだと理解した。  時間を代償に…… 「何があったんですか」僕は先生をじっと見つめる。  艶のある髪や、まっすぐと見つめる大きな瞳、形のいい鼻、厚すぎない唇、ととのった顎。すべて彼女、先生のもの。 「私の友達を助けてほしいの。三日前に事故死した、彼を」涙ぐみながら先生は言う。 「事故死、ですか」 「佐々波君にしか、できないから……」  気まずそうに答えるのも無理はない。先生は僕のすべてを知っている唯一の人。 「人の記憶から、僕を消す代わりに、時間を戻せる」僕はぼそっと言う。 「あ、あのね。分かっているの。このお願いがどれだけ佐々波君にとって、悪質で自分勝手なお願いか」 「いえ、嫌みで言ったんじゃないです」僕は考え、視線を床に移す。 「人の記憶から僕を消す、ということは、その人は僕を知らないといけないから…」 「あっ!」先生も、気づく。 「そうなんです。家族の記憶から僕がいなくなったいま。僕を知るのは、先生、あなただけなんです」  診察室は沈黙にかえった。僕は家族のために家族から僕の記憶を消し、時間を戻した。けれども、先生の友人のために、先生から僕の記憶を消すのは、僕に損がありすぎる。 「お願い、忘れないから……」 「え?」 「佐々波君のこと、忘れないって誓うから。お願い。一生に一度のお願い」 「そんな、こと、言われても」  僕は気になる点が浮かんだ。 「その友人って、彼氏ですか?」僕は視線をさらに下にやった。 「友人が、彼氏かって? えっ、と」  先生が悩んでいる間、僕も悩んだ。だって、もしもそうだったら、この依頼は正直お引き取り願いたいものに変わる。だって。 「そう、私の彼氏。私の、本当に大切な人なの」先生の瞳から、何か覚悟を感じる。  いま、僕の瞳にも、きっと先生と同じものがあると思う。絶対。   考えれば考えるほど時間が掛かる。そうすると、代償になる記憶の量も増えていく。一刻を争う事態とはこうゆうことなのだと、実感した。その日は、先生の家に泊めてもらった。もともと僕には帰る家がない。だから、初めは助かったと思ったけれど、僕は助けないといけない立場なんだぞ、と次の瞬間思い直した。夕飯は先生の作ったカレーだった。早く決めないといけないというのに、ずいぶんと煮込むのだ。 「野菜は大きめがいい?」 「あっ、はい。レトルトばっかり食べてたんで、野菜が入ってるだけで、そりゃもう」 「ん、りょうかいっ」  トントンと調子のいいリズムが響く台所を、うっすら開いた僕の目が見つめる。久しぶりだなぁ、この感じ。  そのあとは、気まずさからか、考えていたからか、はたまた緊張からか、会話はカレーが登場するまでお預けとなった。 『はーーーい、これがですねっ、天才シェフの料理です。あまりのおいしさから、帝国ホテルからも連絡がありましてっ』テレビを見る。 「すごいね、天才シェフだって」 「うん」  ローテーブルにカレーライスが二皿置かれる。ライスとルーの割合はちょうど一対一。 「おいしそう」笑顔になる僕。 「さ、お待たせしてごめんね、いただきますか」先生もにっこりして言う。 「いただきます」 スプーンがいつも使うものより大きくてすくう量が多くなる。人参の匂いがはっきり分かるのは好き嫌いが分かれそうだ。鶏肉は分厚くて、少し硬い、どうりでできるまで、こんな時間が掛かったわけだ。じゃがいもが大きくて熱い、口に入れたのに一旦戻してしまう。ご飯が進む。行儀が悪い気がして、先生に見られていないかと、僕は顔を上げる。「あっ」と小さく声を漏らしてしまった。そこには悲哀に満ちた先生の顔があったのだ。 「先生」 「うん?」 「本当に、おいしいよ」僕は言う。 「ありがとう」 「ううん、本当においしいんだ」 「私の彼氏は、にんじんが土臭くて嫌って言ってた」先生の目が潤っているのに気づく。 「そっか」僕は何て言えばいいか、分からなくなってしまった。 『この料理、誰に食べてもらいたいですか? ええと、そうですね、自分を育ててくれた師匠と……。お、あとは誰ですか? 大事な人です。武者修行に行っている間、しばらく会っていない彼女です。 おおぉぉぉーー! 幸せ者だなぁ!』僕も、彼女も、明るいところに顔を向けなかった。ただ、おいしいカレーを食べた。 どうやら、これが最後の晩餐になりそうだ。 『今月の八日、午前十一時頃、○○市○○町にて、車同士の接触事故により、松田幸喜(26)さんが死亡』  僕は事故についての情報を調べた。彼女は僕を見なかった。夜の九時ごろ、星が見えない夜空を彼女の家から見渡す。彼女との別れの日は、せめて満天の空を見せてくれたらな、と思ったが。カーテンを閉めなくていいという彼女はお風呂に入るといってしばらく戻ってこない。事故の情報をいくら調べても、分かるのは彼の名前、年齢、大まかな職業、事故の起きた場所、時刻、そして自分の体の震えぐらいだった。どうせ時間が戻るのなら、殺人未遂やら自殺未遂やらを大都会で起こせば今の世の中、多くの人に僕という人物の記憶ができるだろう。そうすれば、彼女の記憶はここ三日分が消えるだけで済むのに。僕がやってのけることなんてできるのか。はっとするような孤独感に襲われていたのに気づいた僕は、考えるのをやめて、彼女に伝えるためにお風呂場に足を運んだ。そろそろ僕は、行きますよ、と。 「先生、すいません」僕はそっとドアをノックする。 「先生、僕、そろそろ行こうと思って……。先生から貰う記憶を最小限に抑えるために、世間の人から注目されるようなことをしようと思ったんです。けど、いざその時になったらできない気がして」僕は話を続ける。  自分の手首を、一瞬見る。「きっと先生のためであろうと、思いとどまると思うんです」と力のない声で言う。彼女にきこえたかはわからない。 「あの、寝てます?」  疲れはててお風呂場で眠ってしまったのか。僕はそっとドアノブを回すと、うっすらと開かれた隙間から、彼女の足が見えた。 「先生」先ほどより大きな声で僕は言った。  桜色の素肌が露出している。そのふっくらした肌から確実に流れ落ちている、血。艶のある髪は草刈りによって集められたもののように非力で生命を感じづらくなってきている。ただ飾りで着けられたような髪によって彼女の顔は見ないで済んだ。 僕は先生が自殺を図ることを、心のどこかで見えすいていた。先生の立場になって考えることを、僕にはできる。けど、それでも。 「だめだろぉ‼ こんなことぉ‼」絞り出した声だった。  まだ間に合う。彼女は弱ってきてはいるけれども、生きている。記憶を代償に、今すぐ戻るしかない。僕は廊下に肩をぶつけながら、ローテーブルに置いていたメモを取った。事故についての詳細を記載していたのだ。  僕は祈った。過去に戻るときは、戻りたい時間に起きた出来事、していたこと、とにかくイメージが必要だ。イメージに骨組みが終わり、形ができて、色がじわっと浮かんできたのを感じると、次は代償となる記憶を思い出さなければいけない。会話の中の一語一句、普段なら気に留めないような仕草。精神的に参った僕にやさしく接してくれた。病院の先生なのだから当たり前じゃないと思うんだ。確かに感じた彼女の涙、笑顔、考え、苛立ち、幸福、快楽、昇天。待ってて、すぐに彼を助けて、あなたを以前のような幸福に満ちた顔に戻すから。全部戻すから。  そして僕は過去に戻った。  蝉が鳴いている。ゆらゆらと踊る陽炎にめまいを覚えた。車が僕を追い越して行くたびに、熱風が直撃する。空を見上げると、大きな入道雲がこちらを見ていた。一世一代の告白を初めてしたのは、あの形をした雲だったなぁ、と振り返る。あたまの中で一通り喋り終えると、近くのコンビニに向かった。 「八月八日、午前九時七分、だな」新聞、時計を交互に見た僕は確信した。  彼女に聞いた、この日の彼氏のスケジュール。仕事が休みだった彼は、男友達と遊ぶ予定だった。集合時間になるまではカラオケに行って時間をつぶしていたらしい。僕は歩いて彼の行ったカラオケに向かった。 「いらっしゃいませー」 「すいません、待ち合わせしていたんですけど、先に一人で部屋に入っちゃったみたいで」 「はあ……。かしこまりました。待ち合わせのお客様の名前は……」 「はい、松田です」 「電話でお呼びしますので、少々お待ちください」 「あ、はい」  僕は「彼にはなんて説明すればいいのだろう」とずっと考えていた。非現実的なことを、初対面の人が言っても全く通じないだろう。どうしよう、どうしようと混沌とした頭の中で、一つだけ確かに光り輝いた考えがあった。それは、彼女を話に出すということだ。たったそれだけで、彼は理解してくれると確証のない自信がそこにはあった。 「なんすか。俺の知り合いって」 「こちらの方なのですが……」店員は困り顔で説明する。 「えっと、俺この知りませんけど」彼はぼそっと言った。 「あの、いえ、僕はあなたのことを知っているんです。話があるんです」僕は言う。 「は?」  爽やかな印象を受ける。彼は肌が焼けていて髪はさっぱりと短かった。体格が大きく男らしいとも思った。それに彼は、僕の馬鹿げた話をきいてくれたのだ。 『カラオケチャンネル! 今月の一押し曲はぁぁl、なんでしょう!』  照明をつけないため、二十八号室は非常に薄暗い。カラオケルームは歌わない場合、常に画面には広告が流れるのだと、この時初めて知った。 「つまり、俺が今日、今から死ぬから助けに来たと」彼はドリンクバーで持ってきたコーヒーを飲んだ。僕は「はい」と真剣に答えた。 「うーん、確かに信じられんな」 「……そうですよね」 「時間を戻した、というかお前だけがタイムスリップしんじゃね」 「あ……。そう、ですね」僕はそこをついてくると思わなかった。 「証拠とかないの? 三日後にしかなかったものとか」 「ええと……」 「ほら、この時間のお前がいるとか」 「いえ、時間を戻したので、この時間軸の僕がいるとかはありません」僕は言う。 「んじゃあ、事故の記事は? ほら、新聞」彼は嫌な顔をする。 「あっ、すいません。そんな余裕なくて」僕は下唇を噛む。  沈黙。マスを一つ開けて、沈黙。 「うーーーーーーん」二人でうなる。 「とりあえずよ、佐々波君だっけ?」 「あ、はいっ」僕は返事をする。 「事故が何時に起きるかは明白なんだろう? なら、その時間まではここでゆっくりカラオケでもしてようや。友達には遅れるって言っとくから。な?これならいいだろう?」 「そうしていただけると、うれしいです」僕は思わずにっこり笑う。 「おう」彼も笑った。  カラオケをした。こんなに歌ったのは初めてだ。腹から声を出すって、よくわからなくて、すぐに喉が疲れているのがわかった。気持ちいい疲労だ。よかった、これで彼の事故死が起きなければ彼女の笑顔は戻るんだ。僕はうれしくなって、声が枯れてきても歌った。 「佐々波君は、まだ小さいよね、中学生くらい?」 「あ、いや。高校一年生です。多分」 「多分かよ、なんだそりゃ」 「まぁ、それぐらいの時が一番楽しいんだ。暇だし、遊べるからな」年上と年下の世間話。僕の声が、がらがらすぎて気に障ったのか。 「おい、一回休憩しろよ」彼は苦笑しながら言う。 「あ、はい」僕は曲が終わるとマイクを置いて深呼吸した。 「ほら、もう十一時になったぜ?」彼は携帯の画面を僕に見せて言った。 「確実に助けたいので、十二時までは待ってください」 「はいはい、わかりましたよ」彼はコップを持って、「飲み物取ってくるけど、なんかいる?」ときいてきた。 「いえ、僕は大丈夫です」 「あ、そ」彼はぎぃーと重たいドアを開けて出ていった。  僕は選曲リストをざっと見ていく。さすがに知っている曲、というか歌える曲はひととおり歌ったのかと思う。すっかり僕は目的を遂げた気になっていたらしい。一件落着と思って安心しきっていたものだから、携帯の着信音が鳴ったときは驚いた。画面を見ると『マキ』となっていた。誰だろう、この人は、と停止する僕。 「え」と僕は悪い想像をした。昔からの妄想癖がこの時爆発したのだろう。知らぬ間に、思い上がった僕は電話に出てしまったのだ。 「もしもし」僕は言う。 「あ、もしもしこうきー? どれくらい遅れそうなの?」 「誰ですか、あなたは」僕の動悸が早くなっているのを感じる。 「は? あんたこそ誰? 怖いんだけど。こうきの携帯じゃないの? これ」女は強い口調で言う。 「僕は松田さんの知り合いです。松田さんが席を外していたので」 「は? だからって人の着信にでないでしょ!」女は言う。 「それは、すいません。あの、あなたは」息がうまく吸えない。がらがらな声で喋る。 「なに?」  二十八号室の部屋への入り口が、ぎぃーと鈍い音を出しながら開いているのに気づかなかった僕は、質問を続けた。 「あなたは松田さんの何ですか」 「おい、佐々波君。それ、俺の携帯じゃね? 何してんの」彼は『マキ』と通話していると気づいていない。 「松田さんの何ですか」僕は強く言った。 「おい……まさかお前」悟った彼は勢いよく携帯を奪い取ろうとした。拍子にジュースが無残にも零れ落ち、プラスチックのコップが跳ねる音がかすかに響く。ジュースのびちゃびちゃと下品な音のほうが大きい。僕は携帯を取られないように両手で持ち、耳に当て続ける。女は僕と彼が携帯を奪い合っているのに気づかない。綱引きの綱の代わりに携帯を持ってしまったからだ、「スピーカー」を誤って押してしまった。 「おい! 何勝手に電話してんだよ!」 「うるさい! 離せ!」携帯が部屋の大きなテーブルの下に滑り落ちてく。  女は僕らが喧嘩しているのも分からなかったのか。女は確かにこう言った。 「こうきは私の彼氏です。付き合っています」僕は目を見開いた。時間が止まった。黒目かも白目かも分からない状態で、僕は松田幸喜に顔を向けた。追い打ちをかけるように女は口を開く。 「結婚を前提に付き合っています」 「なんでだよ」  僕は四十二回、ひとり呟いた。時間が止まっていた。彼は、焦っているようだった。 「ったく。人の携帯とるなよ」彼は言う。必死に答えた言葉。 「あなたにとって先生はなんだったんですか」 「は?」 「先生はっ! 僕の大好きな先生はあんたにとってただの遊び相手だったんですか!」 「おい、そんなキレんなよ」彼は独り言のように言った。少し、笑っている。 「あんなの、マキが勝手に言ったんだろ? 俺はそうでもねえ」彼は続ける。 「先生の話をしてんだよっ、クソがっ!」僕は右手をテーブルに叩きつけた。大事な右手に八つ当たりしたのだ。痛いって言っている。 「わかった、正直に言うよ。おれはね」彼は目線を僕から何もない横に移す。 「どっちも遊び相手だったんだ。なんていおうかね、佐々波君に分かるかな。いわゆる体の関係? あと将来のためのコミュニケーション能力をつける授業? 的な?」  僕は我を忘れて殴りにかかった。しかし、体格のいい彼と、食事もろくにとっていないんじゃないかと心配される僕とじゃ話にならなかった。前歯の永久歯が抜けて、鼻血が出続けた。止まるのを忘れている。あとは、もう頭がボーっとする。 「たくよ、ざけんなよガキが」彼はちょっと呼吸を落ち着かせてから、そう言って出ていった。 『時刻は十二時ッ! さぁ、みんなカラオケ楽しんでるかいー?』  会えば五輪の損がゆく。難しい。損せぬ人に儲けなし。 「僕は何をした? 大切な人の愛を守った? 壊した? 僕は損をしただけなのか? 最初から時間なんか戻さなければよかったのか? 今、僕のことを知るのは、カラオケとコンビニの店員さんと、あのクソ野郎だけだ。いや、店員さんに関しては、もう僕のことなんか忘れちゃったのかな……」  悔しさが込み上げてくる。吐き気がする。ぎぃーとドアを開け、外に出た。店員さんに見られはしたが、声はかけられなかった。僕は本当なら事故が起きていた交差点に向かう。暑さは感じなかった。寒さも、食欲も、恥ずかしさも、痛みも、いやらしさも、感じない。  僕は歩道にちょこんと座って待った。今から起きることは、マジックの種を見つける時みたいに、瞬き厳禁だ。座って、待った。  僕にも比があったとは思うよ。でもね、あなたとの比率をどう考えたって、僕のほうはありんこさんみたいに小さいんだ。きっと誰も気づいてはいないでしょう? もうどうしてやろうかって。精神的に病んだんだよ、きっと。全力で、あなたの痛めつける方法を考えるんだ。そのための過程なんてどうでもいい。あなたの家庭なんかもどうでもいい。僕には関係ないんだもの。どうぞ僕が満足するまで、困惑して断末魔のような叫びなんか出してみてよ。途中で聞き飽きた僕は「五月蠅い」って言って叫び声を出せなくする。そしてその日の寝る前に、後悔するよ。こうゆうのは後から思うんだ、もっとあの叫びを聞いとけば良かったって。  何を言っても同じじゃない。ああいえばこうゆう。それは僕のほうだったね。ああいってもこういっても、話のキャッチボールで帰ってくるボールはいつもと変わりない。僕が頑張って投げてみた変化球も、あなたは頑張って取ろうともせず、かといって避けようともせず。顔面に直撃しても、顔色一つ変えずに、真顔で一塁に小走りするんだ。そんな試合をした日には、「地球外生命体を見た」なんて声に出してみんなに教えるんだ。この試合のために全部を捨てたんだ、俺には覚悟があるんだ、とかなんとか意味わからないこと言っちゃって。僕はあなたを見ると、僕の知っている「生き物」と、ほど遠くなるんだ。あなたが僕を見るときはどう? 確か言っていたね、僕に「暇そう」って。僕がやっている行動ひとつひとつが、暇だからやっているように見えた? お菓子を食べたり、友達と遊んだり、映画を見たり、踊ったり。まだ、理解できるよここまでは。でもね、どうやったら、勉強するのも生活するのも暇そうに見えるの? ごめん、ちょっと混乱してきたね。小学生の三十分もない休み時間。あの時間を僕たちは全力で遊んだ。暑くても、寒くても。喧嘩したり泣かせたり、笑ったり。ぱっと見無駄に見えるでしょう? けどあなたたちは「羨ましい」っていうじゃない。無駄みたいに見えるのが羨ましいの? もうわかったでしょう、なんにでも難癖つけずに全力で生きていた「あの時」の自分が羨ましいんでしょう? それは僕も一緒だよ、やっと意見があったね。じゃあ、僕にはもう構わないでよ、君も僕も、指差して向かう島の方角は同じなのだから。僕も「今」決めた。君にはもうできる限り関わんないようにするよ。全力で、ガキみたいに。きっとその姿は醜いんだろうなぁ、「あなた」みたいに。あぁ、そっか、なら変えた、僕はやっぱり子供みたいな心に足を生えさせて、背伸びをしながらでも高見を目指すよ。その姿は、きっと「あなた」とも「君」とも大きくかけ離れているだろうから。あなたと違う存在になりたいからそうするんじゃない。君と一緒に和解して生きていきたいからするんじゃない。  我が儘なんだ。あなたとは違う景色を見たいんだ。あなたに気づかれず、悟られず、そして天国やら地獄やらで、昔ばなしをするときに言って羨ましがるんだ。ルーティンみたいな日々を、朝を。パリやイギリスで過ごしてごらん、いや月なんかもいいな。きっと全く違う自分が顔を覗くから。そしたら気分を悪くするんじゃないかって? 今までの自分がどれだけ限られた時間を無駄に過ごしたのか理解して、自分に嫌気が指すって? 大丈夫さ。僕が一度見た違う景色。その時は気分を悪くさせる余裕もなかった。荒野で百匹の百獣の王がこっちに走ってきたときに、「高校の時に肩をぶつけてきたあいつ、クソだな」なんて思うかい? 少なくても僕は思わない。だから、大丈夫。全力疾走の持久走。スタートの合図が鳴ったというのに、「転んだらどうしよう」、「足に豆ができたらどうしよう」、「この身を削るなんて」。そんな邪念を取り払うための根拠のある大丈夫なんか求めるの? じゃあ、君はトマトのへたにでもなって、「いらないよね、これ」なんて軽い気持ちで言われちゃうんだ。「実が栄養を貰うときにへたがなかったら大変なんだぞ」なんて言い返しても。それこそ無駄。へたが必要なときに無くならないと意味がないんだ。鬼がいないかくれんぼで、見つけてくれる人はいるの? たまぁにいるだろうんね、道端歩いてた人が「あっ、みいつけた!」なんて言って。それは誰? これって、君の求めた、五月蠅いぐらい一人で騒いでた根拠だか、なんだかって姿形も見えないね。あれれ、おかしいなぁ、こんなはずじゃなかったのに。  自分への言い訳はナンセンス。全力疾走するときの靴を買うときの言い訳はいいセンス。「この靴だとあのコーナーが走りにくいんだよ」って言えば、SELLになった瞬足の靴でも買えるさ。僕があなたに会ったのにも何かしらの意味があると思うよ。だって、現に僕はこうして「違う景色」が見えたんだもの。これが何カ月と続くとたまったもんじゃないけどね。それじゃあここで、あなたとはお別れ。多分、SELL中の靴を見るときなんかでまた会いそうだけど、そんなときは気まずくなりながらでも声かけて。「相変わらずですね」なんて言ってさ。    轟音を立てて彼の乗った車は吹き飛んでいった。ボーリングみたいだ。周りの車も巻き添えを食らって横転。耳障りな音が大都会に響く。僕はこのままでは熱中症になってしまうと思い、もう一度カラオケをしに行った。 二十八号室に案内された。テーブルもコップも、何事もなかったかのようにきれいさっぱり汚れが消えていた。救急車のサイレンがカラオケの部屋だというのに聞こえてきたので、サイレンの音をもみ消すためにお気に入りの曲を掛けて、熱唱した。声のがらがらはすっかりなくなったから大丈夫。けど、心は今までにない痛みだった。針千本飲まされて心臓に達してしまったんだ。僕は精神病院に行った。 診察室に向かい廊下を歩く。下唇を噛みながら襟元をばたつかせる。一呼吸置いてからドアをノックする。 「はい、どうぞ」 「失礼します」 「ええと、佐々波さん、ですね。初診です……あら、ごめんなさい。何回か足を運んでいただいて……」 「はい」僕は言う。 「ごめんなさい、最近疲れているからか、物忘れがひどくて」先生は苦笑する。 「いえ、大丈夫です」僕は腹から声を出そうとする。  先生はまっすぐこちらを見る。僕は心地いい金縛りにあったように体が動かなくなる。目も、一点を見たまま動かない。先生はその目線に合わせてくれる。 「……つらいこと、あった?」 「……」 「ごめんね、前回来てもらったのも忘れて」 「……いえ」 「気を取り直して! 私でよければ話きくよ!」元気な素振りで先生は言う。 「話、聞いてくれますか」 「ええ、もちろん」 艶のある髪が、さあっと揺れる。 「僕は、死にたいです」僕は泣くのを必死に耐えて口を開いた。 「……どうして?」先生は、にこっとしているが目が違うどこかを見ているようだ。 「僕は、人を殺めました。直接じゃなくても」 「……そっか。ゆっくり聞こうかな」 先生は机に顔を向けた。多分、目は携帯を見ている。 「最初に聞いておきたいんだけど。……あなたが今、愛している人、いる?」 「……え」 「愛している人……は」 「聞きづらいけど聞いちゃった、どう?」 「……います」 「なら、その人のためにがんばるのも悪くないんじゃないかな」 「……先生、僕の話、聞いてください」僕は先生しか見なかった。先生は「なに?」と小さく呟いた。もう、なにがなんだか。僕は大粒の涙を流しながら言った。 「愛かわらずですね」      
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