彼女達の話

10/15
前へ
 /19ページ
次へ
 人形はわたしの事を掴んだまま、母からの逃走を図りました。余程気が動転していたのか、甲高い悲鳴を吐き散らしながら。  抱きかかえられた彼女の腕の隙間から、後を追ってくる母の姿が見えました。薄暗い夜闇の中に、その野獣のような爛々とした目の輝きが見えました。  追いつかれればどれだけ酷い目に遭わせられることか、容易に想像が付きました。しかし痛覚の遮断された肉体を得たこともあり、わたしはそれを他人事のように考えていました。  仮に捕まった所で、仕置きを食らうのはわたしの肉体を得た人形の方だ。例えわたしに敵意が向いた所で、それを恐れる必要は微塵もない。わたしは一切の危機感をかなぐり捨てて、絶望の追いかけっこの傍観者となりました。  とは言え、元気旺盛な子供と日々の暮らしで疲弊した大人の勝負、しばらくの間は人形の方が逃げおおせていました。彼女は脇目も振らずに走る傍、やはり喉が枯れるかのような勢いで絶叫し続けました。  元々人気の少ない路地に位置するアパートの近辺、彼女の声は孤独な道路に虚しくこだまするばかりでした。それでもなお、彼女は声を発し続けたのです。痛覚などないこの身で、耳に痛みを錯覚するほどに。  人形はずっと母の事をリードしてきましたが、何事においてもハプニングというものは付き物、彼女の身にも想定外の事態が起こりました。雪は踏み固めれば氷となり、その上は触れたものをことごとく滑らせる罠へと変貌します。  彼女は走る最中に偶然、その罠を踏んづけてしまったのです。必死になって体制を保とうとするも虚しく、彼女はその場で派手に転倒してしまいました。  そこにあの人でなしの化け物が追いついてくるまで、然程時間は要りませんでした。  母の目には娘のわたしの事が、憂さ晴らしのためのサンドバッグ程度にしか映っていませんでした。わたしの肉体に入り込んでいるのが、一体誰の魂かなんて、知った所で意に介さなかったことでしょう。  必死の逃亡も虚しく、人形は再び母の禊の餌食になりました。腹を蹴られ、首を絞められ、下手をすれば死にかねない暴行のために、人形の悲鳴はより一層悲痛なものになりました。  しかし情の欠けらも持たない母親もどきに、泣き落としが通用するはずもありません。悲しみの涙と吐瀉物が、雪を汚らしく溶かしました。  悲鳴が大きくなるにつれて、クソったれ女の乱暴狼藉も勢いを増しました。わたしは人形の死を予感しました。  彼女のことを気の毒に思わなかった訳ではありませんが、それを優に上回るほどの無関心がわたしの中を支配していました。わたしはもうこの時点で、人間から離れかけていたのでしょう。  他者を気遣う心を捨て、人形であることに徹したのですから。  人形の声は段々と小さくなっていき、完全にフェードアウトしてしまうのも時間の問題でした。いよいよここまでか。わたしがそう思った直後のことでした。  突如として暗澹たる闇の中に、眩い閃光が走りました。母はいきなりの視界の変化に戸惑い、一瞬手の力を緩めました。それとほぼ同じタイミングで、涙と鼻水で乱れきった人形の表情が、大きく緩んだような気がしました。  そうか、彼女は初めからこれを狙っていたんだ。わたしは光の正体に気づいてそう思いました。闇に差し込んだ輝きは星のものでも月のものでもなく、人の手によるものでした。悲痛な叫び声を聞いて駆けつけてきた者達による、救いの光でした。

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加
広告非表示!エブリスタEXはこちら>>