第3話 Mithraism

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ジェイに招かれて本部にやってきた俺とエリックは、いつもの螺旋階段の前で妙なものを見た。ステンドグラスが飾られた窓辺の近くの棚から出てきたのは、コーギーだった。 昨夜の雨で汚れたのか泥だらけの犬は、その足跡を残しながら螺旋階段の前をぐるぐるとひたすら回っていた。 「どこから入ったんだこいつ…」 「……………」 こちらに気づくこともなくくるくると回り続ける犬を見ていると、一足先にエリックの家をでていたエドが「こら!」と叫ぶ声が聞こえた。見ると2階からその美しいブロンドの髪が見える。その顔はいつもの穏やかな笑みと違って憤怒の表情だったが。 「またお前は絨毯を汚して!マクレーン監査に迷惑だろう!!」 声を荒らげながら階段をかけ下りるエドに気づかないのか、コーギーはその泥だらけの顔をこちらに向けるとその短い足ですごい勢いでエリックにぶつかってきた。「うわっ」と小さな声を上げて驚くが、コーギーはは、は、と息をきらしながらエリックの顔を見上げている。 「なんなんだ、こいつ」 「私が扉を開けた時に勝手に入ってきたんですよ。捨て犬か何かかと思いますが、さっきからずっといて。監査は犬アレルギーなので…毛を落としている間に貴方たちが気になったようですね」 エドに聞くと、彼はその端正な顔を少しだけ歪ませてコーギーを憎々しげに見つめていた。ジェイが犬アレルギーだったのも驚きだ。彼女が苦手なものなどこの世には無さそうなのに。エリックは足元の小汚いコーギーとじっと飽きもせずに見つめあっていた。 「…客室の風呂で洗ってもいいか?コイツといると俺たちまで汚れる」 「そうしてくれるとありがたいです」 苦笑するエドに微笑み返すと、エリックに犬を客室まで連れていかせる。俺がここへ初めて来た時に使った、安っぽいモーテルのようなシャワールームに犬を放り込むと、エリックにタオルを持ってくるよう頼み、俺は犬を洗い始めた。 このコーギーは人間に興味があるのかしきりに俺やエリックを見ていた。勝手に洗われるのも嫌ではないらしく、舌をしきりにだして石鹸の匂いを嗅いだり泡に顔を突っ込んだりしている。落ち着きはないが、露骨に嫌がって暴れるようなことはしなかった。 「……君、犬なんて飼ってたの?」 「ばあちゃんの家にいたんだよ、ちっちゃいヨークシャーテリアが。たまにそいつの世話をしてた」 タオルを持ってきてくれたエリックの問いに答え、濡れた犬の体を拭いた。綺麗になったコーギーはにこにこ、といっていいのかわからないが嬉しそうにしている。「偉かったな」と頭を撫でると、ワン!と一声吠えた。 シャワールームの扉のそばに立つエリックに、「お前も撫でてみろよ」と席を譲る。彼は戸惑ったような顔をしていたが、俺が立ち上がると犬の前に座り、そっとその頭を撫でた。犬は気持ちよさそうに顔を擦りつけている。心なしかエリックの表情も、いつもより柔らかいものになっている気がする。 その微笑ましい光景を眺めていると、客室にエドが入ってきた。その手には毛を取るためのものかローラーが握られている。 「監査にお見えになる前にこちらで毛を、『完全に』とってください」 「…よっぽどなんだな…………」 エドからローラーを受け取り、服についた毛を念入りに取る。エリックも犬を撫でる手を名残惜しそうに離し丁寧に毛を除去した。 だがコーギーはエリックに撫でて欲しいのか足元で、そのつぶらな瞳で見つめてくるものだからエリックは困ったような顔をしている。 「……この子、外に置いていくの?」 「もちろんですよ。監査の部屋に入れるなんて以ての外です」 厳しい目付きで断るエドに、エリックは分かりやすく落ち込んでいる。何かを訴えかける目で俺を見てきたので、肩を竦めながら言った。 「とりあえずこの部屋に置いて、また後で来たらいい。捨て犬なら、こいつをどうするかも決めないとな」 そう言うとエリックは嬉しかったのか、足元で彼を見上げている小さな生きものに「良かったな」と笑いかけていた。 エドには怪訝な顔をされたがこの犬を放ったらかしにはできない。その処遇は後で考えるとして、ひとまずはこの場に止めておきたかった。 毛を完璧に落とし終わった俺たちは、コーギーを客室に置いてジェイの部屋へと向かった。その道中で何度も毛がついていないか確認する俺を、弟は妙なものを見る目でいたのが気になった。 一際目立つ豪華絢爛な扉を、エドの細い腕が開ける。その部屋の中心にマスクをしながら立っているのが我らが上司、ジェニファー・マクレーン監査である。その目は完全に据わりきっており、俺とエリックを憎々しげに見ていた。いつも以上に貫禄がある。 「………犬の毛は、落としてきたでしょうね?」 「…も、もちろん。完璧だぜ、ほら」 そう言って服をパタパタと扇ぎ、その場で一周回ると、ジェイはやっとマスクを外した。 「…………犬なんて部屋に入れてきた暁には、お前たち二人とも縛り上げてやる」 普段よりも凄みのある声でそう忠告され、金輪際犬を飼うのはやめようと思った。犬の毛を付けて来た日には多分、俺はクビになるだろう。そんな予感がする。 そう決意を新たにした俺の隣で、上司の前だと言うのに全く整えられていない髪をかいて立っていたエリックが口を開いた。 「……今日は、彼の認定日だと伺いましたが」 隣にいる俺を指してそう言われて、はっと思い出した。そうだ、ジェイがここへ呼んだのは自分の「調査官認定式」のためだ。犬に気を取られてそのことをすっかり忘れていた。 そんな俺に気づいたのかジェイは深いため息をついた。 「ぼーっとするなよ、調査官。……そう、キャンベルの言う通り今日は君の記念すべき認定日だ。受け取れ」 そう言ってジェイは俺に何か小さいものを投げた。かろうじて受け止めると、それは赤い旗にワシの頭で獅子の足があり、大きな羽を広げている生き物が描かれたバッジだった。 「うちのシンボルのグリフォンさ。創設者はグリフォンを見て怪異の存在に気づいたから、だとか獅子の力強さと鷲の気高さを兼ね備えた人材を求めている、とか色々と伝承はある。実際は、21世紀に残された文献にはグリフォンがいたことを証明するものはないがね。…このバッジを付けていればどこでも『英国超常現象機構です』と言えば顔パスできるぞ」 「……そんな大事なものをこんなにあっさりと……」 「形式より大事なことがあるからな。私は伝統はあまり重んじない主義でね。君の弟にもそうやって渡したよ」 え、とエリックの顔を見ると同意するように頷く。この職場はこんなにフランクなものなのだろうか。 手の中に握られたバッジを眺める。グリフォンと呼ばれた生き物がその羽を力強く広げている姿が描かれているそれを、無くさないように胸ポケットに入れる。 「あの試験は災難だったろう。なんせ合格者が2人しかいなかったからね」 「2人って、俺と…もう1人は?」 「ハンナ・ヴァレンティノだ。赤い長髪でパーマをあてている。知ってるだろう?」 「ハンナが合格したんですか!」 「ああ、今はリヴァプール支部で正式に調査官として活動している。君の合格を伝えたときは大喜びしていたよ」 彼女も合格したなんて!喜びに思わず口元が緩んだが、どうして彼女だけが合格したのかが分からなかった。それを聞こうとした矢先に、エドが傍にたって口を開いた。 「ミス・ヴァレンティノは貴方のために私を応援に向かわせた方ですよ。あの方のおかげであなたがた二人は助かったのですから…」 エドの口から明かされたあの夜の真実に驚き言葉を失う。 「じゃあ、ハンナがお前を呼んで…」 「ええ。小屋の近くを監視していたら彼女が大慌てでやってきて。『森の中にケイが1人だから迎えに行ってやってほしい』と早口で言うものですから、急いで向かったんです。そしたら案の定あなたがたはシェイプシフターと交戦していたものですから…」 しみじみと呟く。彼女は明るくて頭脳明晰で、怪異のまじないを明かしただけでなく俺たちのために助っ人を呼んでくれた、本当に最高の女性だった。酒乱なのが玉にキズだが。彼女の存在がなければ、きっと今頃土の下だ。ハンナの弾けるような笑みを思い浮かべる。またいつかお礼を言いに行きたいと切に願った。 喜びに舞い上がっている俺とは反対に、ジェイの顔つきは厳しかった。エリックの顔を真っ直ぐに見つめ、いつもの穏やかな瞳は厳格なものへと変わっている。 「…にしてもキャンベル、審査官なのに候補生を置いて単独でシェイプシフターを探しに向かったのは、余りにも愚かな行為だぞ。君が離れている間に奴が皆を襲っていたら、君はクビどころではなかった。それに君の命すら危うかったんだ、もっとプロとしての意識を持ってくれ」 「Yes,Sir….」 ジェイのお叱りを受けて項垂れているエリックを傍目に、ジェイのブルーの瞳とかち合う。年齢が刻まれた凛々しい目元に気圧されると、彼女は髪をかきあげてため息をついた。 「…今回はテイラーがいたから助かったが、本番はこうはいかない。シェイプシフターよりもっと危険な怪異と対峙しなければならないこともあるだろう。二人とも、もっとそのことを意識しなさい。特にケイ、エドから聞いただろうが君はあくまで『補欠合格』としてのレベルで合格したんだ。そのことをゆめゆめ忘れるな、いいね?」 「Yes,Sir.」 姿勢を正し、エリックと同時に返事するとジェイはやっとその表情を緩めて「いい子だ」と微笑んだ。 それから、 「二人ともとにかくよく戦ってくれた。君たちがいなければテイラーは間に合わなかっただろう。その尽力は評価する、よくやった」 と彼女らしいお褒めの言葉を頂いて、俺とエリックはようやく顔を見合わせて笑うことができた。
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