第2話 Trial

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時が経って、12月になった。俺たちのいるロンドンの街も、クリスマスムードでいっぱいになった。街の中心部ではクリスマスマーケットが出ており、ホットサングリアやホットワインを配っている時もあった。 だけど今の俺にはそんなのはあまり関係がなかった。 周りには大きな本棚があり、それらに囲まれるように長机がどっしりと構えられている。その上には洒落たランプが置いてあり、アメリカの大学の図書館と同じ雰囲気があった。ここは英国超常現象機構ロンドン本部にある図書館だ。 かなり居心地の良い場所だが、今は他に誰もいない。いるのはいつも通り爽やかな笑みの美形秘書と、真っ青な顔で資料を見つめる日本人だけだった。 「………狼男に有効な武器は?」 「銀のナイフ、銀を溶かした聖水、もしくは銀の銃弾!」 にこにことした顔のエドガーが出した問題に、半ば食い気味に答える。正解〜!という声が聞こえたがもう疲れてぐたぐたな俺には何の役にもたたなかった。 「凄いですよ!もう完璧じゃないですか!」 「そりゃ2週間毎日死ぬ気でやったらな………」 鏡で自分の顔を見る。真っ黒いクマと充血した目で酷い有り様だった。 「こんなに頭使ったの大学受験ぶりだ…」 机の上に突っ伏す。エドガーがホットミルクを持ってきてくれた。程よい温かさが体を癒してくれた。 ジェイが言い渡した認定日というのは「調査官認定試験に出るための認定日」というこれまた彼女の策略であった。つまり嘘である。 人の上に立つ人間としてどうかと思ったが、エドガーは何も言わなかったので多分これが普通なんだろう。たぶん。 調査官認定試験は毎年クリスマスイブに行われ、その年ごとに開催方式が違うらしい。ある年にはペーパーテストが行われ、またある年には実際の怪異事件に対応する実技試験の年もある。毎年イギリス中から特別な訓練を受けた調査官候補生がやってきてこの試験を受けるらしい。 が、とにかく素人あがりの俺はこの分厚い資料を丸暗記しないと他の調査官候補と同じ土俵にすら立てない。認定日からクリスマスイブまではわずか3週間しかないと告げられた俺は絶望の真っ只中にいた。 無理だ、そんなのできっこない!と。そんな中、自分の上官に弄ばれている情けない新人を哀れんだのか、エドガーが休憩時間や仕事が終わったあとでも俺のテスト勉強に付き合ってくれたのだ。 「ケイならできる!自分を信じて!」 「諦めちゃダメだよ!」 と何度も励ましてくれた彼には本当に感謝しかない。エドガーの必死の教育と六法全書並みに分厚い資料を毎日読んだかいあってか、殆どの怪異に対する行動は覚えることができた。 問題は聖書だ。俺は決定的にラテン語が駄目だった。特に福音が何度やっても正しく発音できなかった。 「……et スピリトゥス、サンクトゥ…」 「No!No! 『et Spiritus Sancti』!」 「うえぇ〜?」 頭を抱える。 福音は多くの悪霊や悪魔を祓うことができる、調査官やエクソシストにとっての最重要ワードだった。協会で唱えられる福音には聖なる力があるとされ、悪しき怪異の技である呪いも解除することができるが、これが唱えられなければ肝心の「人の救助」が出来ない。 つまりAEDを持っているのにその説明が読めなくて使い方が分からないのと同じだ。 イブまで残り3日しかない。その焦りが俺をますます追い詰めた。 資料の全暗記はできたから、残りは全てラテン語の発音にあてよう。そう思って俺はエドガーを連れて図書館を出た。 「ありがとな、エド。お前が手伝ってくれなかったら俺…やばかったよ」 「いえいえ、これぐらい何ともないですよ」 そう言ってエドガーはいつもの爽やかスマイルを浮かべた。疲れているはずなのに、顔には全く現れていない。殆ど休みなく働き、さらに俺のためにこうして手伝ってくれることに、いくら感謝してもし足りないくらいだった。 本部の正面玄関へ向かうと、エドガーは立ち止まって「では、また明日」と別れを告げた。 「エド、今日の夜暇だったら飯食いに来ないか?いつも手伝ってくれるし、お礼も兼ねてさ」 「…お気持ちは有難いですが、遠慮させていただきます、すみません。」 エドガーの笑い方が一瞬ぎこちないものに見えた。今日は何か用事があるのだろうか。 (…無理に誘うのもな) 「じゃあ、また明日。」 「はい、また明日。」 そう言ってエドガーはにっこりと笑った。いつも唇の隙間から覗く小さな八重歯が、今日はやけに露わになっている気がした。 扉を開けて外へ出る。時間は5時をまわっていた。買い物をしてから家に帰ると7時過ぎになるかもしれない。 (急いでいこう) クラシックミニのエンジンを勢いよく吹かした。 帰ったときにはやっぱり7時を過ぎていた。車を降りて、玄関の鍵を開ける。部屋の電気はついていた。 「ただいまー」 買い物袋を玄関に置く。リビングから「…おかえり」と小さな声が聞こえた。 ソファにエリックが座っていた。何やら雑誌を読んでいるようだ。 「…遅かったね」 雑誌から目を離してぼそぼそとしゃべる。 「ああ、エドと一緒に勉強してたんだよ。調査官認定試験の。」 とりあえず買い物袋から野菜を全て出して、フリッジに次々と放り込む。今日はじゃがいもが安かったからジャーマンポテトにしようと思い、かなり多めに買った。 「……認定試験って、今度の?」 「おう。福音の発音が全然ダメでさ。エドに何回教えて貰っても出来ないんだ。」 じゃがいもの皮を剥き、小さめに切っていく。電子レンジで少し温めると竹串が通るくらい柔らかくなった。 「そういえば、お前はいつ受けたんだ?その試験」 ソーセージを斜めに切る。その間に先にじゃがいもを炒めて準備しておこう。 「…僕は15の時だよ」 「15歳って、まさか高校生の時か?」 「うん」 先に炒めたじゃがいもを皿によけ、ソーセージを弱火でじっくりと焼いていく。他の付け合せには簡単なサラダでいいだろう。 「高校生のときに試験って…お前、学校はどうしてたんだ?」 「…ときどきは欠席したけど、授業にはちゃんと参加してたよ」 「へー。大学は?」 「オックスフォード大に。だけど途中で辞めた。」 オックスフォード大学。イギリスの超名門校の、あの?トマトを切る手が若干震えた。 エリックは今年で19だから、俺と同じく今年辞めたことになる。 「…お前、凄いな。もったいない………」 レタスを食べやすい大きさにちぎっていく。それを大皿に盛っている間に、焼けたソーセージとじゃがいもをフライパンに入れ直し、ブラックペッパーと各種スパイスを振りかける。 「………この仕事は、危険が付き物だ。忙しいし。勉強と仕事は、とてもじゃないけど両立できなかった。」 エリックを盗み見る。まだあの雑誌を見ていたが、読んでいるのか怪しい後ろ姿だった。手はページに添えられているがめくろうとはしていない。 完成したジャーマンポテトを皿に盛り、サラダと共にテーブルに置く。パンを焼いている間にレトルトの豆のスープを温める。 雑誌を眺めているエリックの後ろから肩を叩く。びっくりして振り返った彼の頭をポンポンと撫でる。「もうすぐ飯できるぞ」と言えば彼はそそくさと手を洗いに向かった。 時間が無くて簡単なものしか作れなかったが、なんとか形にはなった。 エリックと向かい合って食卓を囲み、「いただきます」と言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。 「…今のは?」 「日本の食前の挨拶だよ。別にしなくてもいいけど、俺はなんとなくしてるな。『生き物や、野菜や動物を育ててくれた人たちに感謝する』っていう意味だよ。…イギリスにはないのか?」 「たぶん。敬虔なキリスト教信者は、食前に祈りを捧げるけれど……一般にはないかな」 それは初耳だ。またひとつ知識が増えた。 早速パンを手に取ろうとすると、まだエリックが不思議そうな顔をしていた。 「…どうしたんだ?」 「…………いや、兄である君に従って食前の挨拶をするべきか、と思って」 まるでロボットみたいな奴だ。好きにすればいいのに、俺の『命令』を待ってる。おかしな弟に思わず笑ってしまった。エリックが訝しげにこちらを見る。 「…何か?」 「や、別に。………好きにすればいい。したけりゃすればいいし、面倒ならしなくていい。俺に従うことないよ。」 そう言うとエリックは、ボサボサの髪を揺ら して2回ほど頷いた。そうしてゆっくりと手を合わせて、「……イタダァキマス?」と言った。 お世辞にも上手いとはいえない日本語だったが、嬉しかった。温かいパンをちぎりながら弟を盗み見る。恥ずかしかったのか少し顔を赤らめていたのが微笑ましくて、隠すようにスープを飲んだ。
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