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第2話 Trial
「…起きろエリック。………おーきーろー」
ゆさゆさと眼下にある布の塊を揺らす。いや、塊ではなくこれはれっきとした弟だ。布団をすっぽりと被って寝こけている。
「起きろよ〜…遅刻するぞ…」
頭までおおっている布団を少しだけ剥ぐ。中からはダークブラウンの髪が相変わらずボサボサのまま、すぴすぴと眠る男がいる。
初めて出会った時も思ったが、こうして見るとまだ子どものように見えることに驚く。いつも眠たそうな瞼はしっかりと閉じられており、暗いヘイゼルグリーンの瞳はその姿をすっぽりと隠していた。
余りにも幸せそうに眠る彼を見ると、起こしてしまうのは彼に悪いことのように思えた。
(…このまま寝かしておくか)
そう結論づけてから、彼の部屋をあとにした。
ジェイに、弟との同居を強制されてから3週間が経つ。セイレーンの事件の後、自分が怪異に狙われるようになったと告げられ、自衛と弟の世話をすることを目的に、俺は英国超常現象機構の調査官になった。
いや、正式には今日が認定日である。
この3週間で俺の身の回りの状況は随分と変わった。観光で来たはずの異国の地で思わぬ職を獲得し、そのまま弟の家に住むことになるとは誰も思いもしなかっただろう。ジェイに勧められてイギリスの就労ビザを獲得し、クレジットカードまで作った。日本での運転免許証を英国のものにしたし、完全に出稼ぎに来た移民状態である。
母には全てを包み隠さずに伝えた。自分の義理の弟に会いにイギリスへ行ったこと、そこで特別な仕事に就いたこと、弟と同居するからしばらくは帰れないこと。それから、父のことも。
全てを話し終えた後、母は唐突に
「知ってた」
と言った。何を知っていたのか聞くと、全部、と返ってきた。
「全部って…エリックのことも、父さんのことも?」
「もちろん。…あの人が毎年エアメール送ってくること、知ってたでしょ?あそこに全部書いてあったのよ。」
驚いて言葉が出なかった。母は、知ってて俺を送り出したのか。
「…あんたは父さんより私に似てるから、父さんと同じ仕事するなんて思いもしなかったわ。だけど、…血は争えないのね。」
はぁ、と息をもらして、母は続けた。
「正直、父さんのことは、どうしたらいいか分からないの。結婚してないのに子どもができちゃったし、彼はイギリスを離れられなかったから。今も愛してるかって言われたら、よく分からないわ。愛し合ったのも、分かり合えなくなったのも、その仕事のせいだから」
だから、と言葉を区切る。
「…だから、本当は行って欲しくなかった。だけどそれって、私のわがままでしょ?」
「……母さん、俺は…」
「わかってる。もう決めてるんでしょ?じゃあ、頑張りなさい。途中で投げ出さないで、やり遂げなさい。私は、それが一番圭にとって、幸せなんじゃないかなって思うの」
「…!」
「だけど危険なことはしちゃダメよ!あと、年に一回はこっちに帰ってきなさい。いいわね?可愛い母さんを一人で置いていく、親不孝者にはならないでよね」
「…もちろん、帰るよ。必ず。お土産も持って帰るから。心配しないで、母さん」
頑張って、と言われて、泣きそうになった。悟られる前に電話を切ったが、多分気づかれただろうな。母さんは、俺のことをよく分かっているから。
こうして俺は、遠く離れた日本に別れを告げた。
(…母さんに電話してからまだ2週間しか経ってないんだな)
ここ数週間で起きた様々なことを思い浮かべながら、英国超常現象機構の本部へと車を走らせた。エリックはいない。本当はジェイに二人で来いと言われたのだが、あんなふうに幸せそうに眠っている弟を起こすのは無理な話だ。テーブルの上に食事とメモを残しているので、目が覚めてからこっちに来るだろう、と踏んでそっと家を出た。
俺が英国超常現象機構……通称BPPOで働くのを決意した日に、俺はエリックの家に向かった。彼はジェイが決めたこの状況に不満そうだったが、俺は嬉しかった。
パディントン駅から電車に乗って家に向かう途中で、彼と色々話そうとした。家はどんな感じだとか、好きな食べ物はなにかとか趣味は何だとか。だが俺の質問する全てに、彼は首を振るだけだった。好きとか嫌いとかじゃなくて「わからない」というのだ。
「…僕は、父さんと2人での仕事ばかりに集中していたから、そんなこと言われてもわからない。どうして君がそんなに話しかけるのかもね」
俺は混乱した。これは兄弟とかそういう以前の問題だった。彼のことを知りたいと思っても、彼自身がよく分かっていないのだ。彼と俺との会話は、俺が黙ってしまえば勝手になくなる。それからはもうお互いに話さなかった。
オックスフォード駅で降りて、バスに乗る。通り過ぎる街のあらゆるところがハリーポッターの世界のような雰囲気だ。彼の家はサマータウンというところにあるらしい。バスを降りて、少し歩く。夕方にパディントンを出たが、すでに陽は落ち始めていた。あたりは次第に夕闇に染められていった。
15分ほど歩くと、かなり大きな古い家が見えてきた。ピーターラビットに出てきそうな家だ。よく見る斜めの屋根に、二階建て。窓が沢山ついており、複雑な形をした門には、美しい花がちらほらと飾られている。だが庭には雑草だらけだった。
門を開けるとギーと嫌な音がした。エリックに続いて入る。
一歩入ると目を疑った。かなり広い部屋のはずだが、そのスペースの殆どがゴミで溢れかえっていた。ひどい異臭に思わず鼻をつまむ。
「なんだよこれ、どうなってんだ!」
「…久しぶりに帰ったから、ものが腐ってるね」
冷静に言う弟の隣で、俺はかなり怒っていた。こういうのは美意識に反するのだ。個人的に。
対するエリックはさも当然のように、足場と呼べるかわからないほどの隙間を探し、キッチンへと向かった。俺もそれに続いてゆく。
リビングだけでなくキッチンもひどい有様だった。流しには皿や食べかすだけでなくビールの瓶や腐ったソーセージがそのままになっている。
絶句する俺を置いてエリックは、フリッジから水を取り出した。
「…それ、賞味期限切れじゃないよな」
「………多分、大丈夫かな?」
エリックはペットボトルの蓋を見て、少し驚いた表情をしたが、すぐさま飲み続けた。ため息がでた。
水を飲み終えたエリックは、二階の自室にいそいそとこもって行った。好きにしていいよ、と残されたが、怒り心頭の俺は掃除をすることに決めた。
この家をまるごと、隅々まで綺麗にしてやる、と。
結論から言うと、俺の頑張りのおかげであの家は綺麗になった。元あるべき姿へと戻ったのである。ついでに買い物へ行って食料を買い込み、全てフリッジに突っ込んだ。もちろん消費期限切れのものは捨てた。気がつくと時刻は8時を過ぎていた。夕食をとるのも忘れて片付けに熱中していた自分に妙に感心した。物事は必死にやれば終わるんだと。
ゴミが無くなった部屋はかなり綺麗だった。
肌触りのいいカーペットに、濃いベージュのソファと小さなクリアテーブルが乗っており、向かい側には大きめのテレビが飾られていた。隅っこには観葉植物がある。ゴミに埋もれて見えなかったが、古いレコードや使い古されたレコードプレーヤーもある。かなり散らかされていたが古い映画のDVDもある。それらは埃を被ってはいたが、使われた形跡があった。
エリックの家族の誰かがオールディーズを好んでいたのだろうか。
二階の掃除に行く前に、ゴミを捨てようと外へ出た。その途中でガレージに寄ると、なんと車がある。イギリス車、BMCの緑のクラシックミニだ。その丸っこくて愛らしいフォルムと手入れの行き届いた車体に見とれていると、後ろから声が聞こえた。
「…それ、使っていいよ」
振り返ると、寝起きなのかいつもよりも眠たそうな目でこちらを見るエリックがいた。ボサボサの髪はさらにボサボサだ。
「使っていいって…これ、父さんのじゃ…」
「父さんはもう一台持ってるよ。これはじいちゃんが、僕にくれたもの。僕、車乗らないから、使っていいよ。」
grandpa、と言われ少し驚いた。父とエリックの他に、おじいちゃんまで住んでいたのか。
「…おじいちゃんって、お前の?」
「そう、父さんのお父さんだよ。昔は一緒に暮らしてた。この家もじいちゃんのだよ」
そう言うと、森のようなグリーンの瞳に影が落ちた。
「じゃあ今は……」
「…5年前に亡くなった。ばあちゃんは、もっと前だけど。4人でここに住んでた。」
4人。エリックと父さんと、おじいちゃんおばあちゃん。
「…お前の、母さんは?」
そう言うとエリックの瞳が揺らいだ。さっきよりもわかりやすく。すぐに平静を装ってこちらを見る。
「………いないよ。僕が生まれてすぐに死んだ。」
そう言ってエリックは家に戻った。いつも平坦な声音が少し震えていた。初めて感情を露わにした彼の後ろ姿は、幼い子どものように見えて、何も言えなくなった。
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