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計画的はじめまして
夜になると、高級娼街の入り口の赤い門には、明かりが灯る。
ちょうどその時、杜柳真(ト·リュウシン)は用事を終えてその門から出ていこうとしているところだった。
「いやー、柳真、今日はほんと最高だったなぁ。俺まじでお前のこと尊敬するわー」
雑踏のなか、頭の後ろに手を組んで、暢気そうな顔で隣を歩いているのは、同じく武官の同僚、佑映月(ゆう·えいげつ)だ。
同僚かつ盟友である青年。
この国では珍しい彼の赤毛にまだ寝癖が残っていることに気づいた柳真は、かすかに笑った。
「感謝する気持ちがあるなら、俺の頼みはちゃんと聞いてくれ」
「もちろんもちろん!オレ、お前の言うことなら、もう何だって聞くよ!」
映月も無邪気に笑ってそんなことを言っている。
大通りから一歩入ると、狭く入り組んだ通りに、どことなく妖艶な薫りと、腰の曲がった客引きの老婆たちの姿がちらほらと顔を出しはじめる。
そこは、退廃的な色欲の世界。
頭上では、囚われた女たちが楼の露台から顔を覗かせている。
哀しげな光を、その目に湛えて。
と、その時だった。
数歩先、娼街門の向こう側で、何か蠢く人影のようなものを見つけたのは。
「···いやっ、離して!触らないでっ!」
薄暗い通りに、甲高い女の声が響く。
見知らぬ女が数人の男たちに囲まれて、抵抗している様子が見える。
「···私は飯盛女じゃありませんっ!寄らないで!····やめてったら!」
女は何かを振り回して、必死に抵抗しているようだった。
目深に被られた笠のせいでその表情は見えなかったが、声から察するに、今にも泣き出しそうだった。
「····かどわかしか。娼街の近くに寄り付くなんて、馬鹿な女だな」
事情を察した映月が呟いた。
女の華奢な身体の線を見る限り、どうみても取り囲む男たちを退ける力は無さそうだ。
娼街の近くはとかく治安が悪い。
だから門を出て、過ぎ去りざま、その時の柳真とその女の視線がぶつかってしまったのは、本当に、まったくの不運にほかならなかったのだと思う。
今でも覚えている。
その瞬間、柳真はなぜかぞくりとした。
「そ、そこの武官さま···っ、どうか、お助けください···っ」
震える声。
必死に助けを求めるいたいけな瞳が、柳真と映月に投げられる。
―――しまった、と思うが、もう遅い。
「···········」
あいにく柳真は、このまま立ち去れるほど冷酷な男でも無かった。
内心げんなりしながら、その場で足を止めて振り返る。
······少しだけ、迷って。
「―――悪い。離してやってくれ」
「ああ?!」
案の定、いかにも治安が悪そうな顔つきの男たちが、苛立たしそうに柳真と映月を睨んできた。
「なぁんで、てめぇらにそんなこと言われなきゃなんねぇんだよ。ぶち殺すぞコラ」
「·············」
ありきたりな展開だが、相手は五人。
映月と二人で戦えば、何とかなりそうではあった。しかし。
「ちょっとお馬鹿さん?」
映月が口元をひきつらせながら、やんわりと柳真の衣の袖を掴み、暴走を止めようとする。
「····良くない良くない。口を突っ込むなんて。どういうつもり?お前は呑んでないでしょ」
柳真は気まずそうに小声で返す。
「知らん。目があった。あとで身投げでもされたら後味が悪いだろうが」
「いやいや! さすがにちょっと今はそういう目立つ行為は避けたほうがぁ····」
「なぁにゴチャゴチャ言ってんだよゴルァ!」
「··········ゃっ······」
女は柳真と映月の方をすがるように見ながら、粗悪な男たちの真ん中で、立ちすくんでいる。
映月の言葉を適当に聞き流しながら、少し考えを巡らせた柳真は、やがて男たちに向き直って言った。
とりあえず適当な嘘を。
「―――余計な口を挟んで悪かった。···実は、この女は俺の従者の嫁なんだ」
「ああ?!知るかよ!とっととどっかへ消えろこのクソ若造が」
「女横取りするやつぁ、八つ裂きにすんぞ!」
いきり立つ男たちを前に、柳真は、かすかに目を細める。
彼には、権限があった。
「·····まあそう言うな。ただとは言わない。この女を譲り受ける代わりに、お前たちには、極楽をやろう」
とても謎めいた、その一言。
そのまま自身の胸元から一枚の紙と筆を取り出すと、柳真はさらさらとその場で何かをしたためた。
そして、そのままそれを正面に立っていた男に押し付ける。
「―――これを」
得体の知れない行動に、男はぎょっとしたように身を引いた。
「な、何だァ、こりゃあ」
「···赤蛾楼の小琉という妓女を知っているか。この符で、あれを一晩買える」
「―――は?」
「はぁ?!」
男たちと、加えてそばに立っていた映月もあんぐりと口を開けた。
赤蛾楼といえば、この娼街でもっとも敷居の高い妓楼だ。そして、小琉はその赤蛾楼で一番の売れっ子。
一晩を共にするためには、どれだけ金を積んでもまず一年ほど待たなければならない。
まず先に、映月が若干ひいたような顔で呟いた。
「え、なんでそんなの持ってるの···」
「俺の名は杜柳真。この極楽行きの紙切れは今夜一晩だけしか使えない。······信じるかどうかはお前たち次第だが、場合によっては人生最大の機会をしょうもない市井の女で捨てることになるかもしれんな」
柳真は映月のぼやきを無視して続ける。
男たちの目に、微かな戸惑いが生まれたのを見逃すはずも無かった。
「········っ」
「信じずとも、行くだけ行ってみれば良い。俺はよくここに来る。もし俺の話が嘘であれば、その時一矢報いればすむ」
「···············」
「いいのか? 早い者勝ちだぞ?」
きわめつけのだめ押しに、男たちはそろそろと寄り集まった。
その紙切れを覗きこむと、互いに視線を交わしあう。
そのまま、柳真の出で立ちを、値踏みするように眺め回す。
そして。
我先にと娼街門めがけて一斉に駆け出して行った。
「·············」
「柳真。何、あれ!」
「さぁな」
柳真はまたしても映月の言葉を適当に流し、残された女のほうへ歩み寄った。
「―――怪我は?」
女はふるふると首を振った。
その勢いで、目深に被っていた笠がぽろんと外れて地面に落ちる。
途端、映月が思わず声を漏らした。
「う、わ····!」
女は宵闇でも分かるほど、美しかった。
年の頃は二十前後か。
夜に溶けそうな白い肌と、肩に流れる明るい栗色の柔らかそうな髪。
伏せられた瞳を縁取る長い睫毛。
そして、唇からはあえかな吐息が漏れる。
「武官さま···お助けいただき、まこと、感謝のしようもございません···っ」
それはまさに、男を虜にするために生まれてきたような姿だった。
柳真は無言で笠を拾いあげると、女に被せた。
「········?」
「被っていろ。そのままではまた襲われる」
「·····も、申し訳ございませぬ···」
「どこへ行くつもりだ。送る」
「いっ、いえ、····もうこれ以上は畏れ多いことでございますゆえ」
「良いから言え。面倒かけたくないなら、大人しく言うことを聞け」
有無を言わさぬ語調。
女は瞳に涙を浮かべたまま、困ったような表情で、黙りこんだ。
そしてややあって、助けを求めるように映月の顔を見る。
映月は、その表情から事情を察した。
「―――だって。柳真。目的地なんて、どこにも無いって」
「は?」
「身売りに来たんだよね?わけありなんでしょ?」
「·······はい」
女は俯いて、さらにか細い声で答えた。
柳真は、眉をひそめる。
「そうなのか?」
「····はい。そちらの武官さまのおっしゃる通りでございます。行く宛もなく、ここへ身売りに、参りました···。でも、いざとなったら·····怖くて····とても、」
女の言葉は尻切れになる。
柳真はまたため息をついて、額に手をあてた。
「···完全に余計な口をつっこんだな」
素直すぎる言葉に、たまらず映月が吹き出す。
「まあ、俺は柳真が意外と優しいってことは知ってるから」
「うるさい」
「···で? どうするの?···手、だしたからには、なんとかしてあげるんでしょ?」
普段の仏頂面と比べると、ほんの少し弱ったような色を見せる柳真。
映月は完全に面白がる段階に入っている。
思わず深く嘆息した。
見るからに関わると面倒そうな女。
身なりや所作を見たところ、没落した貴族の娘なのだろうか。
助けてやりたい気持ちが無いわけではないが、無闇に手を伸ばすわけにはいかなかった。
柳真は女へ視線を投げた。
その睨むような鋭い視線に女はかすかに身動ぎする。
「ねぇねぇお姉さん、男の経験は?」
「···おい、映月。下世話なことを聞くな」
「良いから、ある? ねぇ」
「ご、ございませぬ····」
女は顔を真っ赤に染めて、ふるふると首を振った。
歩み寄った映月が眉尻をさげて、下からその顔を覗きこむ。
「くー、たまんないね。そういう趣味は無いけど襲いたくもなるわ」
「よせ。怯えている」
「ははっ、ごめんごめん。大丈夫だよ。オレは合意のもとにやる主義だから」
「············」
柳真は言葉も無く、ただ女を見下ろした。
生娘のくせ、いったいどれだけの覚悟でここまでやってきたのか。
――――憐れな。
たぶん、そんな同情が顔にでてしまっていた。
「あ、あの、武官さま····っ」
すがりつくような女の声に、しまった、と柳真はまた思う。
変になつかれでもしたら、たまらない。
どうにもしてやれないのだ。
矜持を傷つけない程度に、金でも渡してこの場を去るしかない。
柳真は、感情を押し殺した。
「悪いがこれ以上相手はできない。少しだけ金をやるから、こ―――、っ!」
女が突然、そのまま胸に飛び込んできて、柳真は声を上げた。
慌ててその体を受け止めると、期せずして抱き締めるような形になって、
「! 何を···!」
「―――武官さま!ご無礼を承知で申し上げます!どうか私をお屋敷においていただけませぬか!」
柳真は目を見開いた。
女はがばっと顔をあげると、なおも懇願してくる。
必死な声音に一切の余裕は無かった。
「お願いでございます···っ!どんなご用命でも承ります!掃除、洗濯、雑用、なんでもやります!きっとお役に立ってみせます!このまま得体の知れぬ男たちに触れられて死ぬのだけは、我慢がなりませぬ···!」
どうか、どうか、と女にすがりつかれて、柳真は眉尻を下げ、たまらず映月を見た。
「····おい、なんとかしろ」
「なんとかって、···ぷっ、その顔最高。お前でもそんな顔することあるんだな」
「面白がるな。真面目に助けてくれ」
「だって、お前が最初に口を挟んだ結果じゃないか。オレは知らないね」
飄々とうそぶく映月を、柳真は恨みがましい眼差しで見つめ返す。
それから、ゆっくりと、こわごわと、胸元から見上げてくる女の顔を見下ろした。
「お願いでございますっ、武官さま···っ」
「――――っ」
すり寄ってくるその顔は、破壊力抜群の愛らしさで、柳真の心をぐらつかせた。
そも、杜柳真という男は、捨て犬や捨て猫を放って置けないタイプの人間なのであった。
「―――まあ、そんなに柳真が嫌っていうなら、オレが身元を引き受けてやってもいいけど?」
くすくすと笑いながら、映月がわざとらしく考えこむような仕草で女を見やる。
「その場合、貞操は保証できないな。オレは柳真と違って、欲しいものは我慢しないタイプだから」
その言葉に、胸元の女がはっと息を呑んで震えるのがわかった。
「わ、私は···居場所さえ、い、いただけるなら····」
「ふぅん。何でもしていいんだ。オレ的には、最高だね。ご飯と寝るところだけあげればいいんだし」
「············っ、」
「ほら、柳真。そんな顔で見られてるけど
?―――いいの?」
必死に見上げてくる捨てられた子犬のようなその瞳に、柳真はぐらぐらと心を揺さぶられる。
ああもう。
「――――何でもやるんだな?」
たちまち映月が意味深な笑みをうかべ、女と柳真を交互に見つめてくる。
柳真は目を閉じると、深く息を吐いた。
「·············新しく居場所を見つけるまでの、間だけなら」
たぶん映月は、最初から、女を引き受ける気など無い。
それが分かっているのに、この時の柳真はのせられてしまう自分を止められなかった。
「ただし、必ず俺の命令に従え。―――いいな?」
こくこくこく、と女は頷く。
「ありがとうございます·····っ、」
こうして柳真は、流されるまま、人生最悪の決断を下してしまったのだった。
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