第二章:『真実の愛』を体現できる人間がいたら奇跡 ◆一.『真実の愛』が報われない事もある

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第二章:『真実の愛』を体現できる人間がいたら奇跡 ◆一.『真実の愛』が報われない事もある

◆『真実の愛』が報われない事もある  前章で、本来愛し愛されるべき存在に嫌われる事こそが辛いのだと書いたが、「そんな事はない、どんな人間からでも嫌われたら辛いだろう」と思う方もいるだろう。  では例えばこう想像してみよう。  秘かにあなたがセンスが悪いと思っている友人に、「その服ダサいね」と言われても、一周廻って『センスが良い』事になるのだから、「お前に言われたくねーよ」とは思えど、そこは気にせず笑って済ませるだろう。もちろん自分が好きな服は着続ける。  だが、心から尊敬しているセンスが良くて性格も良い大好きな先輩に、「その服似合ってるし凄く可愛いけど、去年までの流行りじゃない?」とでも冗談まじりでからかわれたら、二度とその服は着てこないのではないかと思う。  つまりそういう事なのだ。  心底性格が悪くて意地悪な相手に虐められたとしても、あなたの人間性が貶められるわけではない。死ぬほど辛い現実かもしれないが、根本的に自分を大事に想える覚悟があれば、戦うことも逃げ出すことも、他でもない『自分』の人生のためだけに選べるのではないかと思う。  自死を選ぶ前に、その優しさから相手に直接やり返さないまでも、世間に匿名で訴えることくらいは、むしろしてほしい。  自らの罪や間違いで自分を許せない場合もあるだろうが、たとえば芸能人の浮気や不倫のスキャンダルの報道がよくあるが、もしそれが私だったならば、羞恥心から自死を選びそうなほどの事が暴露されても、堂々と、むしろそれを糧にする勢いで芸能界で生き続けている人もいる。  一方で、品行方正に活躍し、誰がどう見ても立派な実力と経歴を持ち、たくさんのファンに愛されながらも自死を選んでしまう方もいる。  その違いは、やはり大本で、自分の存在を否定しているか受け入れているかの違いではないだろうか?  人生のどこかの地点、多くは自分でも覚えていないほど幼い頃や、今現在では大した事だと思っていないような埋もれている小さな記憶の中に、その理由があるのかもしれない。  家族や親友、恋人や夫婦など、自分が大事に思っている相手に嫌われたり、傷つけられたり、疎まれたりする事こそが辛いのであって、実は自分でも気づかないうちに根本に植え付けられた、そういった心の傷が低い自己評価や自己破壊の衝動に繋がっているのではないのかと私は思うのだ。  それが思い出す事すら辛い記憶なら、無理に思い出す必要はない。  だが、その記憶に対する自己評価が『今の自分』そのものになっているのだとしたら、それは正しい自身の姿ではないと、自分に言い聞かせる必要があると思うのだ。  自分には何かが欠けている、この世界に存在する価値などないのだと思い込んでいる理由が、他人からのものにせよ、自分自身に対するものにせよ、本来なら得られるはずだった『愛情の欠落』という感覚からのものだったとすれば、その『愛』に対する認識を改めることで、これからの自分の人生の、セルフイメージを変えることも出来るのではないだろうか。  さてそもそも、ここでいう『愛』とは何か、と聞かれたら、私はこう答える。 『愛とは、土壌のようなものだ』と。  愛のいくつかのパターンについて後述もするが、基本的には、『心の底から湧いてくるような、あの温かい気持ち』と言っていいだろうと思う。  別の言葉で言い換えるのならば、『慈悲』や『思いやり』『優しさ』に近いものだろう。  幼い頃から、家族や周囲の人間たちに十分な愛情を与えられ、生涯自分の味方だと心から信頼できる存在が自分を守ってくれていたならば、どんなに困難な事があろうとも、自分の存在を否定するほどに思い詰めることはないのではないだろうか。  自分の存在を植物の種のようなものだとすると、それを守ってきてくれた周囲の存在や愛こそが、土であると思うのだ。ゆっくりと根をはり、充分な栄養を与えてくれる土壌。  それがあるからこそ、その植物は大きく成長することが出来るし、多少の雨風にはびくともしない強さを身に着けられるのだと思う。  同じような恥や試練に直面しても、逞しく生き続けることを選ぶ人間と、自分が存在していることに意味を見出せなくなる人間の違いが出てきてしまうのは、まさにこの差ではないかと、私は考えている。  そしてそれは、そういった心の支えが『今現在』存在しているかどうかというよりも、人生の初期や、人格を形成する大事な時期やイベント時にいてくれたかどうかによるのではないだろうか。  これまでの私は、自分が嫌いだと思う相手に嫌われていようと、誰よりも何よりも、自分自身が、まさに『死にたくなる程』嫌いだったため、「奇遇だね、私も私が大嫌い」という意味で気にしなかったが、今の私は、「私が生きてきた人生も知らないで、私の事を悪く言う奴や、嫌う人間なんてどうでも良いし嫌いだ。私が嫌いな人間に嫌われようが知るか」に、変わった。  今やネット上で様々な人間に出逢う時代だが、相手があなたの人生を本当に真剣に考えてくれる時間なんて、その相手の一生のうち、五分もないはずだ。あなたがよほどの有名人で、心から愛されているか、アンチとして嫌われているのならば別だが。  あなたの一生、これまで生きてきた人生も知らないのに、一時期の成功や失敗で全てを判断しようとするほど想像力のない相手など、気にするだけ時間の無駄なのだ。  私はおそらく、充分な愛という土壌を得られないまま、もしくはそれを感じることが出来ないまま生きてきてしまった人間だ。  だからそれに気が付くまでは、僅かな風雨の衝撃で流されたり、誰かに踏みつけられたら簡単に潰れてしまう、小さな種のような心持で生きてきた。  このまま一生芽も出せず、搾取する側の土になって終わるのかもしれない人生なのかもしれないと。自分以外の人たちは、悪びれもせず上手く生きているのに、真面目に生きても自分だけが損をしているように感じていた。  こちらが真の愛情で接しても、最後には裏切られる。実際、そういう人生だったのだ。  だが、自ら自分の状態に気づけたのなら、考え方を変えればいいのだ。  ベランダやコンクリートの僅かな隙間に、いつの間にか育っている植物のように、今日、今の今まで、これまで必要な愛情という名の土もなしに何とか生きてこられた自分の強さに驚嘆もするだろう。  最初から誰かに与えられなかったものならば、ここまで成長しては枯れてきた自らの葉や、いつのまにか風に吹かれて集まってきた土が、これから新たに自分の糧になる土壌になってくれるのかもしれない。それは充分な救いさえない中で今まで根を張ってきた、あなたにしか解らないし、得られない、特別な土壌なのだ。  そしてもっとシンプルな生き方は、エアプランツのように、土を必要としない生き方だ。  他者からの愛情を必要としない、それはそれで生命としての心の進化なのかもしれないと、私は思う。  今の今まで、それでも生きてこられたのだ。  他者からの愛という土壌が無くても、自分自身への愛情さえ持っていれば、充分だという存在にもなれる。  なぜなら唯一これだけが相互条件ではなく、自分自身でコントロールできる、確かな『愛』なのだから。  それではここで、改めていくつかの『愛』の形について考えてみよう。 一、生命そのものや、全人類に対する愛(『地球を救う』的な愛) 二、本来なら親から子、子から親に向けられるような、いわゆる無償の愛 三、恋愛感情としての愛(異性間にしろ、同性間にしろ) 四、神への愛(宗教的な、あるいは奇跡や超自然的な力、宇宙の存在の根源にたいする愛) 五、自分自身への愛  一から四までは、裏切られたと感じたり、実際に裏切られる事も多々あるのが現実だ。  自分自身がどんなに心の底から愛しても、『真実の愛』が報われないこともある。  これは、相手が存在し(または存在すると仮定して)、相手の想いや行動をコントロールできない限り、起こりうる現象でもあるのだ。  ちなみに私が言う『真実の愛』は、たとえどんな事が起こっても、相手にどんな仕打ちを受けようとも一切揺らがない、未来永劫、自分の人生やこの宇宙が終わるまで貫き通せる正真正銘、本当の愛情の事だ。しかも、自分の理想を押し付けるのではなく、相手の本当の幸福や発展を願って臨機応変に行動を変えられるほどの愛の事だ。  では、一つ一つ『真実の愛』が報われないと感じてしまうパターンについて考えてみよう。
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