◆二.真実の愛を永遠につらぬき通せるのは神様だけ

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◆二.真実の愛を永遠につらぬき通せるのは神様だけ

◆真実の愛を永遠につらぬき通せるのは神様だけ  映画や小説などの『真実の愛』は、大抵の場合、最後には報われる。  だが、現実に肉体をもって、限りある命を生きている私たちにとっては、必ずしもそれは実現しないように思える。  ではそれぞれ、いくつかある愛のパターンによって、生きている私たちにとって「報われない」と感じてしまうかもしれない展開について考えてみよう。 一、生命そのものや、全人類に対する愛(『地球を救う』的な愛)  最も尊いと思われる行いをした人が、非業の死を遂げてしまう事もある。  砂漠に水を運び、数えきれない程の人を未来永劫救い続けるようなシステムを作った聖人のような人も、テロリストの手にかかって亡くなってしまった。  戦争の悲惨さを伝えるジャーナリストや、難民や貧困層を救うために自ら危険な地帯に赴いたボランティアや医師の人々さえ、暴力の犠牲になってしまう事も多々ある。  たった今、現在も、正しい抗議活動や自由のために非暴力で戦うデモなどで命を落としてしまう人々もいるはずだ。  後世まで歌い継がれるような平和の歌を作り出した人も、アンチや行き過ぎたファンの手によって殺害されてしまった例がある。  ただし、亡くなったり傷つけられた人たちが、その人のそれまでの人生や生き方を後悔しているかどうかは別である。それはその人個人にしか解らないことだ。  もし魂というものがあり、死後の世界があるのならば(私はどちらかと言えばそういった事を信じているタイプだが)、その人たちは最後まで貫けた自らの生き方に誇りを持ち、非業の死を遂げることによって伝説となった事で、より多くの人間を目覚めさせ、平和への使者として語り継がれる事に幸せを感じているのかもしれない。  あくまで、今生き残っている私たちの目線で見た時に、『これほど清く正しく優しく生きてきたのに、可哀想な亡くなり方をしてしまった』という意味で、報われなかったように感じるという事だ。 二、本来なら親から子、子から親に向けられるような、いわゆる無償の愛  親が子に向ける愛情、子が親に向ける愛情がすれ違う事があるのは、誰もが知るところではないだろうか。  問題は、そういったお互いに『いつか気が付いてくれるかもしれない』という家族としての本来の愛情がある場合ではなく、本当に、心底お互いを憎しみ合ってしまう場合である。  何も問題が無くても子が親を嫌うということはまずないはずだ。 『反抗期』という一言で子供たちが感じているこの世界の理不尽さや狂乱ぶりに対する怒りを片づけてしまうと、その後何十年と、不条理にこの世界に産み出された恨みを抱き続けられる事にもなる。  それは、養ってくれているだとか、育ててくれているという現実とは、まったく別次元の事なのだ。  ましてや、この世界に産み出した責任もとらず、虐待するような親ならば言うまでもない。  そういった親に、感謝や愛などを感じている余裕はない。  それにも気づかずに、ただ「お前を育てるためにお金を払っているのだから、無条件に感謝しろ、親を敬い愛し、恩を返せ」などと言われた日には、自分もそれを産み出した存在さえも消してしまいたくなるのは当然の事ではないだろうか。 三、恋愛感情としての愛(異性間にしろ、同性間にしろ)  言うまでもなく、裏切りや心変わりが存在する。  たとえ不遇の時期や芽の出ない時期を支えてきた献身的な伴侶や恋人であっても、一時の欲望や思い上がりで捨ててしまえるのが人間である。  自分自身がどれほど変わらない『真実の愛』で相手を想おうと、相手がその愛に値しない場合もあるのだ。  ある程度までは裏切られても赦すこともできるだろう。  だが、ふと「そんな自分は心から幸せなのだろうか」、という疑問がわくことがある。  答えはほとんどの場合が『NO』であろうと思う。  相手のためを想ってどれだけ耐えようとも、変わらない相手は変わらないし、むしろ図に乗って愛情どころか感謝の気持ちすら忘れてしまう人間もいるのだから。 四、神への愛(宗教的な、あるいは奇跡や超自然的な力、宇宙の存在の根源に対する愛)  特定の宗教について語ると誤解されそうだが、あえて言うのならば、あのイエス・キリストでも「神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになられたのですか?」との言葉を磔の刑に処された時に発していたらしい。神への信頼がこの地球上のどの人間よりも揺らがないと思われる存在であっても、少なくとも、その一瞬は疑ってしまったらしいのだ。  たかだか煩悩にまみれた一般人の私たちが、時に神という存在を疑ったり、悪態をついたり、自分だけが見捨てられたような気がしてしまうのは、当然とも言えることではないだろうか。  それに加え、自称宗教家や敬虔な信者という人間による、性的虐待や金銭の搾取、洗脳にテロといった様々な事件がこの地球上には蔓延している。  それが新興宗教であれ、何千年も人類の心の拠り所とされ愛されてきた歴史のある宗教であれ、心からの信念を持ち続けて人を救ってきた善良な人間もいれば、それを隠れ蓑にして自分の欲望を満たして他人から搾取するだけの、最低最悪の人間たちも残念ながら存在する。  むしろ歴史が長ければ長いほど、自らの存在だけが正義と主張し、宗教戦争などで多くの人の生命を奪ってきた人間も多いともいえる。  私自身が個人的にどんな宗教上の神よりも神らしいと考えている、『万物の根源』という意味での『神』はこの宇宙を支えている自然の法則であり、裏切りようもない存在だとは思うが、それがどんな世界のどんな神であっても、信じきる前に現実の厳しさに押しつぶされて、「この世に神様なんていないんだ!」と叫んでしまう人も多いのではないかと思う。 五、自分自身への愛  これが、最も自然でありながら一生保つことは難しく、かつ、自分自身があえて強く意識することさえできていれば、生涯揺らがないかもしれない愛情だと、私は思うのだ。  ここで言う自分への愛は、いわゆる『ナルシシズム』、『自己愛』とは違う。  ましてや、「自分さえ良ければ他人などどうなっても良い」というような自己中心的な考えではない。  自分が自分でいる事への安心感というか、他人が自分をどう誤解しようと蔑もうと、「でも本当の自分を知っているのは、自分しかいないから」という達観と共に、他者の間違いや中傷や嫉妬心などを、さらりと受け流してしまえるような自分の存在の中心に根差した『愛』なのだ。  自分への評価に、他人の作為や思いなどは介在させない強さと、自己憐憫でもなく自己陶酔でもなく、客観的にとらえてなお自分自身を正当に扱える自信である。  しかしこれがまあ、日本人として生まれ育った私たちには、かなり難しいのも事実だと思う。  謙遜や譲り合いは美徳でもあるし、『出る杭は打たれる』思いをしないで生きてこられる人など、それ程いないのではないだろうか。  幼少時の記憶が自分を縛り付けているように、かなり自己愛性が強い人格でもなければ、「自分なんて……」と必要以上にへりくだってしまうのも仕方ないともいえる。  だが少なくとも、「自分なんて……」の先の言葉を「死ねば良いのに」から、「生きてるだけで精一杯」や、「ただ頑張ってるだけ」、「それなりに良くやってる!」というように、徐々に肯定的な言葉に置き換えていくことはできると思うのだ。  私も何年もかけて、自分自身へのこの言葉を変えてきた。  言語としての前後の整合性など、自分の頭や心の中で合わせる必要性はない。  セルフイメージが沈みかけているのに気が付いた時には、とにかく何も考えずに「自分なんて……最高かよ!」と叫んでも良いのだ。ただし心の中で。  自分の心の中だけは唯一、他人に踏み込ませないで良い領域なのだから、無神経な他人に突っ込ませる隙など与えてはならない。  現実がどうであろうと、他人からどう思われようと、自分を愛する権利は確かにあなただけにあるのだから。  さてそれでは、最後に副題の、『真実の愛を永遠につらぬき通せるのは神様だけ』について語ってみようと思う。  ここで言う『神様』は、あくまで私が考える『神様』である。  もちろん既存するどんな宗教のどんな神様でもなく、ハッキリした言葉を話すような人格(神格?)を持っているわけでもない。  イメージで言うならばビッグバン。宇宙創造の時の光と爆発、黄色か白の眩い光、それが真っ暗な背景の宇宙を背に、画面いっぱいに広がっている。  これが私が『神』と聞いて思い浮かべる姿だ。  そして、だいたい小学生の中学年から高学年くらいの時からこう考えていた記憶がある。 「神様は『法則』のようなものと考えれば、説明がつくのではないか」と。  悪い事をすれば『罰が当たる』ことや、良い事をすればいつか自分のためになる、報いがあるという、『情けは人の為ならず』という事も、単純に自分がした事がいつか自分に返って来る法則だと考えれば簡単だ。  問題は、この地球上では必ずしもその結果がすぐに出るわけではないという事だ。  誰かに意地悪しようと思って投げた石が、即ブーメランとして返ってきて自分の顔面に当たるくらい解りやすければ、誰も神や宇宙の法則を疑ったりはしないだろう。  とんでもない極悪人が生涯権力やご立派な肩書を持った大金持ちで居続けたり、清廉潔白な人が貶められ、正しい糾弾をした人が殺されてしまったりもする。  そんな理不尽さや不条理さを埋めるのが、『生まれ変わり』というシステムである。  そもそも、現世でまとう肉体は、自分の本体である魂の乗り物でしかない。  これをゲームで例えると、まさに「今、死ぬほど苦しい思いをしている」人にとっては、許しがたい怒りに襲われる事もあるのは重々承知の上で言うのだが、最も理解しやすい例えなのであえて言う。  今現在の肉体は、亡くなって魂となった時の自分が、あえて選んだ肉体である。  ゲームで言うのなら、キャラクター選択画面で色々と入力し、これが理想だな、と思ったもので今回の『人生』という名のゲームをスタートさせる。  ただし、その人生によっては、必ずしもハッピーエンドで終わるわけではない。  ある種のゲームにハマって何周もやり込んだ事のある人なら知っていると思うが、隠しシナリオや究極のエンディングを見るには、バッドエンドなど、何種類かある全てのエンディングを制覇しなければならないのだ。  そして、人生における最終的な本物の全コンプリートをしたご褒美、魂における本当の究極のハッピーエンディングは、『再び、神と一体になる事』である。  そもそも宇宙の始まりがビッグバンのように、たった一つの『神の魂の分裂』だとすれば、私たち個性を持った一つ一つの生命が、それこそ人類だけでなく、生きとし生ける全ての生命体が、あえて忘れてはいるけれども、神の魂の一部であり、違う側面なのだ。  だって材料は、宇宙の始まりに、原始の『神』それ一つしかなかったのだから。  あえてそれを忘れるのは、ゲームそれ自体に没頭するため、もしくは攻略本に頼ってクリアしても、そのゲームを自分の魂の実力で完了したことにはならないから。  稀に前世の記憶がある子供たちなどがいるが、それはもうかなり何度も生まれ変わって、最終的なゴールが近い存在の人たちなのかもしれない。  ある程度ゲームをやっていればパターンとしてそうなるという予測できる展開もあるし、プロになればなるほど、前世を忘れる事自体に意味がなくなるのかもしれない。その人たちは魂レベルではもうどちらかと言えば神に近いシステムエンジニア側で、まだ未熟なゲーマーを助けるためにわざわざ産まれてきてくれているのかもしれない。  まあ本当の所は前世の記憶のない私には何とも言えないが、自分の中で整合性のある生まれ変わりのシステムがこうだという事で続ける。  そして、『自分』という一つの魂が、ありとあらゆる生命の、ありとあらゆる幸や不幸、善と悪を生ききってようやく、ゴールである神の元へ帰ることが出来る。  とすれば、まさに今、『真面目に正直に生きているのに死ぬほど苦しい人生』を選んでいる人は、魂のレベルで言えばかなりの上級者であり、ここさえ乗り切れば、後はもう生まれ変わる必要がないほどの、完璧に幸せなゴールに辿り着ける寸前なのかもしれない。  つまり、自分自身であえての『超ハードモード』を選んだのかもしれない。  そうでなければ前世で、他のプレーヤーにかなり酷いことをしてしまったのかもしれない。  そうなると、自分自身も少なくとも次か、その先のいつかの人生で酷い目に合うことで、ゲームを成り立たせなくてはいけなくなる。  自分がやった事がいつか必ず返ってくる、この基本的なルールすら思い出せずに好き放題に生きている人間は、誰がどう見てもかなりの初心者だろう。  気に入らないと玩具を投げつける、赤ちゃんレベルの初心者だ。  私たちは皆、自分自身が主人公のプレーヤーであり、他の生命にとってはゲームに出てくるキャラクターなのだから。残酷なゲームがやりたいと思ったら、いつか自分が犠牲者になる役も演じなくてはならない、それがこの世界のルールなのかもしれない。  どちらが自分の立場なのか、どうせ解らないのなら、自分で選べば良い。 「自分はレベルの高い魂だから、辛い事も多いのだ」と納得させるもよし、「前世で何も気づかずに間違った終わり方をしてしまったから、今回は耐えるしかないのだ」と反省するもよし。自分が生きやすい考え方で納得できれば良いのだと思う。  このように、神様の自作自演のゲーム、それが私たちの生命であり、人生だと仮定する。  すると、どんな事が起きようと、全て好きにさせるのが神の愛である。  私たちにとってはゲームのキャラクターが何度死んでも、もう一度やり直せるように、魂にとっては肉体は存在しないも同然である。  魂という本体が傷つかないのだから、転んでも間違っても、何が良い事で何が悪い事なのかいつか自分の力で気づくまで、完全にクリアするまで何度でもゲームをやらせるだろう。  未来永劫、この宇宙が終わるまで神様は待っていられるのだから。  あまりに間違ったエンディング、例えば人類のせいで地球上のほとんどの生命が死んでしまうようなことになったとしても、神様は止めないかもしれない。  それが自由意思で私たちが選び取ってきた結果だからだ。  だが魂は、また何億年と、人生や生命をやり直せる星が出来てからこのゲームを続けなければいけなくなるのかもしれない。  少なくとも、何度も生まれ変わってきた賢い魂ならば、そんな道は選ばないだろう。  人間として生まれてきたからには、できるだけ多くの魂が幸せにゴールに辿り着けるように、導き助けるのが本来の私たちの役目ではないかと思うのだ。  あくまでも妄想だが、これが私が考える『神様』であり、『真実の愛』である。  こういったレベルで、自分や他者の間違いを赦し、愛することができる人間が、果たしてどれだけいるだろうか。  もし「そんな何もしてくれない神様は嫌だ、助けてくれるのが神様じゃないの?」と思うのなら、私たち自身がこの地球で今最も、そういう『優しい神様』に近い存在なのだから、そんな神様に近い人物を演じれば良いのだ。  欲に惑わされず、見て見ぬふりをせず、悪い人間に正しい罰を与え、正しく生きる人間を助けて世界をまともなものにしていけるのは、今生きている私たちだけなのだ。
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