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◆四.『ハッピーエンド』は生命の数だけある
◆『ハッピーエンド』は生命の数だけある
かの有名な時代劇、高橋英樹さん主演の『桃太郎侍』の最終回はご存知だろうか?
ずいぶん昔の作品なので、念のため概略を説明させていただく。
第11代将軍・徳川家斉のご落胤でありながら武家の因習では不吉とされる双子として産まれたため、兄、松平備前守のようなお城暮らしではなく、身分を隠して市井で養生指南の素浪人として暮らす人の好い主人公、桃太郎(本名:松平鶴次郎)。
大きな権力や不正、犯罪の餌食となって傷つけられ、命を奪われてしまった庶民のために、仇討の際に初めてその高い身分を明かし鬼退治をする、という痛快娯楽時代劇の代表のような名作である。
が、なんと最終回の一つ前の第257話では、ずっと一途に自分を慕ってくれた女性、『玉川つばめ』が、桃太郎に向けられた銃弾の盾となり、命を落としてしまう。
えーーーーーーー!
この展開を初めて観た時、思わず私もそう叫んだ。
いやいや、ここは普通、致命傷を負いながらもギリギリのところで助かって、それによって桃さんもようやく自分がつばめを深く愛していたことに気が付いて、つばめの報われなかった257話分の想いが実って、祝言をあげて『高砂や~』で終わる最終回を迎えるところでしょ?
なんなら、結婚の数年後に産まれた、男の子と女の子一人ずつと、桃さん、つばめと長屋のみんなで幸せそうに暮らしているところでしょ! と、そんな全ての物語に共通する、ありふれたハッピーエンディングを想像していただけに、まさか最終回直前にそんな事になるとは、まったく想像もつかなかった。
そう、『恋愛と結婚だけが幸せの全てではない』、そう普段から理解し、心からそう思っている私でさえも、この展開はまったく予想していなかったのだ。
これこそが、思い込みの怖さである。
そして最終回。
なんと、兄の松平備前守も暗殺されてしまう。
そうかぁ、じゃあ桃太郎が将軍家の跡を継ぐんだな……。
そうして庶民の幸せを、今度は治世の面から守る、そういうエンディングかぁ……。
と、思いきや。
ラスト、誰にも告げずに旅に出てしまう桃太郎の後ろ姿で終了。
将軍として立派に世を治める、そっちでもなかった。
あれだけ人を救って、敵討ちをしてきた、善良で強くて優しい桃さんが。
もっと重みのある、暗いテイストの時代劇ならばまだ解るが、これだけライトに解りやすく勧善懲悪ものの、楽しめた時代劇だったのに。報われなさすぎる最終回にしばらく絶句してしまったことをよく覚えている。彼の人生は果たして幸せだったのだろうか……。
結論からいうと、そんなものは彼本人にしか分からない、である。
愛する人の盾になって亡くなった、つばめの気持ちですらそうである。
もし仮に彼を守れず自分だけ生き残っても、彼女自身は一生の後悔と共に、地獄の苦しみを味わいながら暮らしていくことになったのかもしれない。
最後の最後まで、彼を守って命を全うする事こそが、彼女の真の幸せだったかもしれないのだ。
ここからは真面目な話になるが、もし仮にあなたやあなたの大切な人が、先天的に、もしくは事故や病気などの原因で不妊の体であったとしよう(男性であれ女性であれ)。
そこに「ああ、それじゃあなた、一生幸せになれないんだね」と、心ない人から声をかけられたとする。
怒りを通り越して、相手が言っている事の意味が解らないと思わないだろうか。
子供を作る、『遺伝子的に自分の子孫を残す事だけが幸せ』だとすれば、それはそうだろう。
だが、私たちは自分の意思もあり、多様な生き方があると知っている人間である。
美味しいものを食べて、それを与えてくれた無数の命に感謝できる事も幸せだし、美しい景色を観て感動できる事も幸せだ。血の繋がりなど無くても、自分より弱いものを守り、慈しみ、育てる事ができる、これもとてつもなく幸せな事だ。
一人一人、生きてきた背景が違えば、何が自分にとって幸せなのかは変わる。
仲間と他愛ない事で騒いでふざけている時が一番幸せだという人もいれば、自室で一人、お気に入りの本を読んでいる時間が至福の時だという人もいるだろう。
(私はもちろん、後者が幸せというタイプだが。)
たった一つの幸せのレールから外れたら『不幸』だというのは、他にも無数にある幸福の道の全てを拒否し、無くしてしまう事だ。
他者が歩む幸せの道を否定することは、自分自身の幸せの道を閉ざしてしまうのと同じことだ。何故なら人生は移り変わる。かつての自分にとって幸せだった事が、未来の自分にとっても幸せだとは限らない。
自分自身や他人の幸せの形を定めてしまうと、そこから外れただけで不幸になってしまうのだ。誰かを蔑んだその状態に、いつかあなたがなるかもしれないのに。
例えば、離婚。
周囲の目が気になるからという理由だけで、お互いに愛し合っているどころか、憎しみ合っている状態で結婚生活を続ける事は、本人たちにとって本当に幸せな事だろうか?
もしあなたが離婚することを望んでいて、相手が『恥』だとか『世間体』だけを理由にどうしても別れてくれないとするならば、その世間の目という思い込みこそが不幸の元凶とも言えないだろうか?
とても快活で聡明で美しい人が、旦那さんのDVで離婚したという話を聞いた。
その人は、『結婚に失敗』したのではなく、『離婚に成功』したのだ。
周囲からは『結婚している』状態よりも、『離婚した』状態の方が不幸なように見えるかもしれないが、本人たち以外に、家庭内で何があったか、どんな思いをして生きてきたのかは、知りようもない事なのだ。
そう、他人がその人たち本人の人生を真面目に考える時間なんて、きっと五分もない。ましてや、その人の人生の残り全部を命やお金をかけて助けてくれるような事もまずない。
無責任だからこそ、幸不幸や善悪のレッテルを貼れるのだ。
みんな自分の人生が他人からどう見えるかに神経を使う時代だが、SNS上では見えないところで嘘をつくことも、必要以上に盛る事もできる。
良いパパママを演じていた人間が、子供を虐待死させてしまったような例もある。
誠実さをアピールしていた一見華やかさもない男性が、何人もの女性を騙していた結婚詐欺師だったという事もある。
本人たちが何を思って生活していたのかは知る由もないが、それでも『心から幸せ』だったとすれば、よほど残念な人たちである。
『他人から見て幸せそうな人生』を選ぶのか、『自分だけにしか理解できないかもしれないが、本当に心から幸せな人生』を生きるのか、それは私たち本人、一人一人にしか決めることはできない。
どれだけ太ってもとにかく美味しいものを食べて生きていく事が自分の幸せだと言うのならそれも良いだろうし、我慢と努力を重ねてでも理想の体形を維持するのが幸せなのならそれも良いだろう。苦しいのは、他人の価値観や思い込みに左右されて自分本来の幸せを見失ってしまうからだ。
もちろん、たまには好きなだけ食べて、ここぞという時に痩せるために努力するのも良いだろう。ダイエット一つとってみたところで、個人差があるのだ。
そう、痩せすぎだろうが太り過ぎだろうが、背が高かろうが低かろうが、“それぞれ違ってみんな良い”のだ。自分でコントロール出来ることもあれば、先天的な条件や病気で直したくても直せないこともあるだろう。
要は、『自分自身が自分に納得しているか』が、本来の幸せの唯一の条件だと思うのだ。
それさえしっかりしていれば、他人に幸せかどうかの値踏みをされたところで揺らがない心を手に入れられるのではないだろうか。
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