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◆二.『無縁仏』なんて存在しない
◆『無縁仏』なんて存在しない
そうは言っても、ずっと一人で生きていく人ばかりが増えたら子孫繁栄に影響するじゃないか、ご先祖様に申し訳ない! と思う人も当然いるだろう。
だが結論から先に言えば、これからの時代、もし全ての人間が自分の子供を何人も持とうと思ったら、おそらく数十年後にはもう、地球は水や食料の枯渇した絶望的な状態に陥っている事だろう。
今現在ですら、例えばプラスチック問題など、本当に今この瞬間から解決に向かって方向性を正したとしても、すでに取り返しのつかないかもしれない環境汚染が蔓延しているのだ。
未来の百億人の人間の生活を維持するための食糧を生産するだけでは、決して問題は解決しない。むしろ、人間が増え続ける事が正しいと前提にしたその考え方を改めない限り、地球の生命は喰いつぶされて、惨めな終わりを迎えることになるだろう。
そういう訳で、子供を持たない選択をする人間もいて当然だし、今すでに誕生し、そしてこれから産まれてくる子供たちの未来に限りある資源を残すという意味では、子孫を残さないという選択は、むしろ地球に生きるほとんど全ての生命体に貢献しているとも言えると思う。
大切なのは、違う生き方を選択している相手を責めたり、悪者にしたりしない考え方を広めていく事だ。自分の子供を持っていようがいまいが、誰もが産まれてきたことが幸せだと思える世界にしていかなくてはならないし、産まれてきたからには、誰もが出来るだけ安らかで穏やかな死を迎えたいと思うだろう。
映画『リメンバー・ミー』などの名作を観ると、確かにこれまで命を繋いできてくれたご先祖様に感謝や尊敬もするし、自分の代で絶やしてしまっては申し訳ないという気持ちも解るのだが、それを言うのなら、そもそも人類はみんなどこかで繋がっているはずだ。
人類発祥の地アフリカから始まって、生きる場所を求めて旅を重ね、その土地その土地で生きやすい外見や身体能力、民族性を発揮してきたにすぎない。
たかだか皮膚の色が違ったり宗教が違っているくらいで、優越感を持ったり他者を排除しようと考える方が異常なのだと、私は思う。
ついでに言わせてもらえば、恐らく私たちの先祖の全てと考えると、一度も人を殺していない人間などいないだろう。戦争等、やむを得ない事情があったにせよ、だ。
私は小学生の頃、父や祖父の怒りっぽい遺伝子など残したくないと思っていたが、もし私が大事に思う人が同じような悩みを抱えていたら、きっとこう言うだろう。
「それは人類全体の問題であって、私たち全員が秘めている性質なんだよ」と。
歴史上、殺し合いの一切無い生き方で命を繋いできた幸運な民族はいないのではないだろうか? もしいるとすれば、他民族と接触したことのない、この地球上でまだほとんど誰にも知られていない少数民族だろう。それでもおそらく、その人達の先祖はいつかの過去で争いから逃れて生きてきた歴史があるのではないかと思う。
問題は、何千何万年と、未だに戦争どころか性暴力や弱い者への虐待すらなくせない、私たち人類全体の性質なのだ。
その中で、どんなに他者に苦しめられ憎んでいたとしても、相手を傷つけるよりも自死を選ぼうとしてきた人たちは、私にとってはこの世界の希望のように感じられる。
心が繊細で弱いと感じられるのは、本来悪い事ではない。
傷つくのは、それだけ誠実に生きてきた証なのだ。
崇高な精神で頑張ってきたからこそ、報われない悲しさや絶望があるのだ。
精神的に強い人間の方が上手くやっていけるだろうし、生き抜くという点では上だろう。
だが、そういう人間が必ずしも善であるわけでも、正しいわけでもない。
汚い事をしても自分だけ幸せであれば良いと思って生きられる人間は、そもそも心の痛みなんて感じないのだろう。だから強者のように見えるだけだという事もある。
だからこれまでの人生で、報われなかったり認められなかったからといって、あなたが正しくない訳でも、悪い訳でもない。たとえ上手く生きられなかったとしても、優しく誠実である人たちにこそ、私は命を繋いでいってほしいと思うのだ。
この世界に絶望できるほど心が美しい人は、むしろこの世界に必要なのだから。
だからもし、あなたが一緒に生きていきたいと思える人に出逢えたのなら、家族になる事も、子孫を残していく事も、それはそれで、自然で幸せな事だと思う。
一人で生きていく事も、誰かと生きていく事も、どちらも選べてどちらも認め合えれば、多くの人間がより幸せな人生を全うできるのではないだろうか。
さて、今回は『過去、縁が無くて産まれてきた人間など存在しない』という意味で使用させてもらったが、タイトルの『無縁仏』は本来、『弔う縁者のない死者』といった意味だ。
だが、自死を考えた事のある人で、「自分が死んだら子子孫孫、未来永劫弔ってほしい」と思う人はどれくらいいるのだろうか?
私はむしろ、「勝手に成仏するので、お葬式も何もしなくて結構。できれば自然葬や樹木葬が望ましい」くらいで思っている。
そして『無縁の慈悲』という言葉があるのだが、この場合の『無縁』は、『特定の対象がなく、区別なく全てが平等であること』の意味だ。
『無縁の慈悲』というのは、仏様が一切衆生に対して分け隔てなく注ぐ絶対平等で無条件の慈悲のことなのだ。
『自分の子孫を増やすことが幸せ』なのではなく、『自分と直接の縁故がなくとも、幸せな子供たちを増やす』ように生きていけたら、寂しい『無縁仏』など一人もいないくなる世界が訪れるのではないだろうか?
良く言われる事だが、『子供たちはこの世界の未来の全て』なのだ。
私たちがどれだけ酷い生き方を強いられてきたとしても、それを理由にして今現在、そしてこれから産まれてくる子供たちに、同じような苦しみと、悲しみを味あわせてはいけないと思う。歴史的、宗教的な恨みつらみなど、受け継いでいっても殺し合いを重ねるだけなのだから、出来る事ならば、自分たちが生きている代で全て終わりにしたい。
そして人類だけでなく、動植物など出来るだけ全ての命に『無縁の慈悲』をもって生きることができたら、ただ人として生きているだけで感じる罪悪感など、ほとんど感じずに生きていけるようになるのではないだろうか。
それが、私にとっての理想の世界なのだ。
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