◆三.死ぬまで追いつめられても安楽死の認められない世界に救いはあるのか

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◆三.死ぬまで追いつめられても安楽死の認められない世界に救いはあるのか

◆死ぬまで追いつめられても安楽死の認められない世界に救いはあるのか  さて、理想の生き方や理想のお弔いのされ方も人それぞれだと思うが、理想の死に方についても、人それぞれだと思う。  例えば今の私だったら、自分が歳をとって痴呆症などで身体的に他人のお世話になる前に、自然豊かなホスピスで人生の最期を迎えたい。  住み慣れた実家の自然豊かな家で愛猫たちに囲まれながらというのも幸せそうだが、猫たちを残して死ぬよりは猫たちの全てを寿命で看取るか、信頼できる誰かに猫たちのお世話を任せてから死ぬべきだとも思うので、そういった現実的な事はさておき、ここでは自分が死ぬ直前、残してゆくペットや家族などがいない状態の完全な独り身で、安らかに死ぬ事ができるファンタジー的な妄想として語っておく。  いわゆる『ボケ』ることなく、八十歳、九十歳を超えて生きていた場合だが、なんとか体も心も自分の意のままに動くうちに、自分の意志で眠るように安楽死を迎えるスイッチを押して、そのまま数時間後に死がしっかりと確認されたら、すべり台方式でベッドからお棺へ、そして自動的に土葬で埋葬されるようなシステムが欲しい。  できれば看護などしてくれる人ともいっさい関わらず、誰かに看取られる必要もなく、美しい自然を眺めたり、触れることは出来なくとも可愛らしい動物たちの姿を愛でながら、自分で納得した瞬間に人生の最期の時を選びたい。  現代の日本では安楽死が認められていないが、個人的にはその大きな理由に、医師や看護師の皆さんの手を煩わせる事への罪悪感があるのではないかと思う。  人の命を救う事を使命として生きてきた医療関係者の方々に、いくら自分が心から望んでいるとはいえ、他人の命を絶つ事を無理強いさせるのはいかがなものだろう。  いつか日本でも安楽死が法的に認められるようになったとしても、やはりそこだけは申し訳なく思うに違いない。  ならば、自分自身で自分の命に確実に止めを刺した方が、他者に罪悪感や戸惑いを与えずに安らかに逝けるのではないだろうか。  なぜこんな話をしたかと言うと、私の父方の祖母の最期が、あまりにも私の理想とはかけ離れたものだったからだ。  前述もしたと思うが、父方の祖母は亡くなる数年前から認知症の症状があった。  家にいるときから、息をするたびに「アー」や「ウー」の間のような声を発していたし、腰を痛めて入院した事もあったのだが、それから家に帰ってきてからは、五分ごと、十分ごとに用が無くても呼ばれていたりした。  トイレなど必要な要件なら仕方ないとしても、呼ばれて行ってみれば「いたかい」と、居る事を確認するような時もあった。  父は傍にいても、基本的に自分の気分でしてやっても良い事(例えば祖母が喉が渇いたと言えば飲み物や水などを持ってくることはするが、最後まで面倒を見ないので、こぼしていても気が付かない、または気が付いても放っておく。そのため祖母が服や布団を汚しても、掃除も洗濯もしない等)と、怒鳴ることしかしないので、むしろいない方がありがたかった。  また、深夜でもトイレや「寂しくなった」などの理由で家族全員の名前を順番に大声で呼ぶような事もあった。これは認知症のせいでも多少はあるのだろうが、どちらかというと、祖母の他人に何でもやってもらうが悪びれない、そもそもの性格が起因していたようにも思える。  そのため、祖母が最期に入院した病院でも当然、看護師さんたちに多大な迷惑をかけてしまう事になった。  最初にいた病室から、隣が休憩室の病室に移った事からも判断できるのだが、おそらく、私たち家族がお見舞いに行っていない時間や深夜でも、大声で人を呼んでいたに違いない。  そして、放っておくと徘徊してしまった事もあったようで、ベッドに身体拘束されてもいた。  誤解のないように言っておくが、これは看護師さんや病院側が悪いのではない。  点滴や酸素のチューブを抜かないようにミトンがはめられている事も、ベッドから落ちたり、徘徊の末に大怪我などをしないように拘束されるのも、当然仕方のない対応だと思われる。  まったくの健康体で、行動に一貫性のある人間しか見たことがない人はそれを虐待だとか、もっと一人一人に人間的な対応が出来るだろうと思うかもしれない。  だが看護師さんたちは、行動の予測不可能で、これ以上ないほどお世話になりながらも自分の欲望や意志だけを貫こうとする、聞き分けのない患者さんを日々何人も相手にしなくてはならないのだ。  いくら天使のような心の持ち主でも、物理的に無理な事が重なれば、そうせざるを得ないのも当然だと思う。  しかも、それを毎日、いつ終わるとも知れない日々を繰り返しているのだ。  誰かが亡くなっても、退院しても、また次の患者さんが入院してくるのだから。そんな苦行ともいえる行為を、仕事として続けてくれているだけでも本当に頭が下がる。  だから、今もまだ世界中の病院で起きているそういう事実に文句をつけたいわけでは決してないのだ。  しかし、もしそれが自分の人生の最期の時間だったらと思うと、「そうなる前に、自分の命に自分で区切りをつけたい」と思うのも、また事実なのだ。  祖母の病室は六人部屋で、様々な人たちが入院していた。  基本的には祖母と同じ高齢の女性たちだったが、精神状態には明らかに違いがあったように思える。  例えば、ある女性はスケッチブックとカラーペンを常備していて、物静かに過ごしていたし、ある女性はほとんど目を覚まさないようだった。またある女性は、ずっとやや大きな声で独り言を話していたし、さらにある女性はずっとしわがれ声でこれまた独り言を話し、痰を吐いていた。  そんな中でも祖母は、周囲の人たちにもかなり迷惑をかけてしまった人だったと思う。  もし私の人生の最期があの病室だったらと思うと、恐ろしくてならない。  自分も周りの全ての人も認知症であるなら、ある意味、誰も傷ついたり我慢したりしないですむのかもしれないが、精神的に気を使ったり、相手をどうにかして楽な気分にしてあげたいと思う人間にとっては、果てしない拷問のように思える。  人生の最期に、多くの人に悲しみや愛をもって見送られたいと思う人もいるのだろうが、私だったらそれほど親しくもない人が大量に押しかけてきて、その人たちに気を使わせないように出来るだけ自分の辛さや痛さや環境の悪さを悟られないようにするなんて、繰り返して言うが、拷問以外の何ものでもないと思う。 「なんで最期までこんな思いをしなきゃならないの?」と思いながらも出来るだけ温厚に、にこやかに振舞う自分が想像できる。  私にとっての『安楽死』というのは、誰かに気を遣わずに、安らかに、気楽に旅立つことだ。  別に「死にたい」と思ったら即死ねるという事ではない。  産まれてきた以上、『死ぬ』のは絶対的な事実なのだから、「肉体の限界まで出来るだけ長く生きてほしい」という誰かの自己満足の犠牲にならずに、自分で自分の最期を選べる権利もあるのではないのか。そういう事を提案したいだけなのだ。  安楽死が滅多な事では認められない現状。さらにそれに加えて、ネット上で赤の他人と繋がれるようになってしまった今現在のこの世界には、簡単に『他人を追いつめる思想』が蔓延しきっているように思われる。  例えば『スピリチュアル』という言葉。  私は主にこの言葉を、“もっと心そのものや、精神性を大事にしよう”という意味で使っている。現実はすぐに変えられないかもしれないが、心が変われば、人の行動は変わる。心の変化によって、受け止める現実も変わってくるからだ。  生きていくのが嫌になるほど人生に苦痛を覚えた時、それでもまだどこかに救いがあるのではないかと、すがりたくなるものの一つが、『宗教』だと思う。 『宗教』が自分の存在そのものに疑問を持ったり、罪を犯してしまったり、生き方に迷った人々を数多く救ってきたことも、紛れもない歴史上の事実であると思う。  しかし、いわゆる諸宗教の教えは、そもそも産まれた時からお国柄や人生の一部として自然に組み込まれていることもあれば、そうでないこともある。  他宗教に寛容な教えならば良いが、宗教戦争をはじめ、国や民族同士、人々を争いあわせ、未来にまで禍根を残す問題になっている事も事実である。  また、人生の辛い時期に特定の教えに嵌ってしまったがために、妄信的にそれだけを信じ、他者を排除しようとする生き方に陥ってしまう人もいるだろう。  だから私は、あえて無宗教、無神論者の人たちの考え方も、決して否定はしない。  そのため宗教と無宗教の間の考え方とも言える、『スピリチュアル』の考え方は、私にとっては合理的かつ、人生の不条理に耐える、一種の理想論の境地とも言える考え方だと思っている。物質的な事よりもず、精神的な物を大事にしようという想いは、本来どの宗教とも争うことなく、誰の事も傷つけない現実的に温和な精神衛生上の最善の解決策だと思う。  だがそういった言葉を口にするだけで、『宗教』『メンヘラ』『宇宙人』などと、危険思想の持主だとレッテル貼られてしまう事もある。  本来のスピリチュアルな考え方は宗教ほど厳格に教えを守ったり、他宗教を攻撃しなくても済む、本来ならば誰にも迷惑をかけずに自分の心を救える一種の抜け道的な方法であるのに、だ。  もちろん、あまりにも荒唐無稽な新興宗教に近いものや、無理やり仲間に引き入れて高額の費用を請求するような自称『スピリチュアル』の先生や『スピリチュアリスト』は問題だし、そういった詐欺には引っかからないで欲しい。  だが仮に厳しい現実だけが至上でただ一つのルールだとするのならば、今後も汚い事、酷い事、非人道的な事を陰で行ってお金を稼いで地位を築いていく人たちが生き残ってていく上で優勢になるだろう。  圧倒的大多数の人間が気づかないうちに奴隷化され、最も浅ましく意地汚い一部の人間たちだけが豊かさを味わい、死んでゆく世界だ。  また、自分と違う生き方をしている人を無条件に攻撃する人間もいる。  例えば既婚、未婚、子持ち、子なし、性的マイノリティかそうでないか、など。  実家暮らしか一人暮らしか、恋愛しているかしていないか、ペットの買い方、飼い方、メイクに服に体形に美醜に男女平等にと、とにかく、自分と違う考え方や人生は気にくわないという人間が多すぎはしないだろうか?  一昔前ならば、そういった悪意や中傷も陰口として本人の耳には届かなかったかもしれないが、現在はネット上で簡単に、他人の悪意が目に見える時代なのだ。  多くの人は、他人に迷惑をかけているわけでもなく犯罪者でもないのに、そういった無神経な一言で、心や自尊心を傷つけられている。  自殺はするなと言いながら、自分の力で立ち上がろうとした矢先に存在そのものを否定される言葉を投げつけられれば、誰だって気持ちが萎えるだろう。  その人がそれまで生きてきた、人生の全てを知っているわけでもないのに。  他者を蹴落として見下したところで、自分の幸せが手に入るわけではない。  人の心を死ぬまで追いつめることは簡単にするくせに、かといって『自殺』も『安楽死』も絶対に認めない。それならばせめて、他者の幸せと生き方にもう少し寛容に、余裕のある者が余裕のない者に手を差し伸べることが今よりもほんの少し、自然に行われるような世界にしたいと願うのは、間違っているだろうか?
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