◆四.自分を『0』にして考える

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◆四.自分を『0』にして考える

◆自分を『0』にして考える  生き方の幸せも人それぞれ、死に方の幸せも人それぞれ。  それが解って頂けたと仮定して、次はさらに、自分の考え方、自分の思考や幸せの在り方も、0(ゼロ)にして考える事を提案してみようと思う。  他人の物差しで自分の幸せを測ると、恐らくは、十中八九不幸になる。  何故なら、自分の心に本当に正直になった時の幸せの条件と、世間一般に言われる『幸せ』の条件は、必ずしも一致しないからだ。  例えば私の場合、産まれる前から家で猫が飼われていたし、猫という生物に心を救われて、ようやく生き延びてきた自覚もあるため、今と今後の『理想的な生活』は、『多数の保護猫をお世話しつつ、自然の多い田舎の落ち着いた広い家で暮らしたい』というものだが、人によってはそれは最悪な生活だろう。  そもそも猫嫌いの人にとっては猫と暮らす事自体が苦痛だろうし、都会の利便性を求めている人にとっては、田舎暮らしは考えたくもない生き方かもしれない。  ある人にとっては『世界一幸せな人生』が、同時に他の誰かにとっては『世界一不幸せな人生』でもあり得るのだ。  なおかつ、そういった幸不幸の条件が、人生のある時期で変わっても、まったく問題ないという事も書き添えておきたい。  猫嫌いだった人が、実際に飼ってみて虜になる事も多々ある事だし、自然は好きだが田舎の近所付き合いが苦痛で都会に出てきてみれば、それが思いの他自分の生き方に合っていたという事もあり得る。  結婚というものが人生の最高の幸せだという事もあれば、実際にしてみれば地獄そのものという事もあり得るし、気楽な独身生活を貫こうと思っていた人が、人生を賭けるほどの愛に出逢ってしまう事もあり得る。  大切なのは、自分の人生にとって、本心から幸せな生き方に嘘をつかない事だと思う。  私が思うに『幸せとは、自分が自分自身である事に心から納得している事』であり、それは結局のところ、どんな人間であっても『自己満足』以上でも以下でもないのだ。  心や人生への向き合い方が変われば、幸せの条件も違ってくる。  私自身も、いわれのない中傷や見え隠れする他者の悪意など、一度恐怖を覚えた事や人物に対しては、二度と関わりたくないと思ってしまう人間ではあるのだが、『変化を恐れない』とは、そういう事なのではないだろうか。  さて、そして今回はその幸不幸を測る『自分の物差し』さえも、『0(ゼロ)』にして考える事の利便性について語ってみようと思う。  そもそも、『死』というのはどういうものだろうか。  肉体的な機能が完全に停止するというのはもちろんの事だが、死んだ後の『魂』、自分の意識がどうなるかについては、個々人によって信じている結末は千差万別なのではないだろうか。  宗教によっても違うだろうし、人には決して語る事は出来ないが、およそこういうものではないだろうかという予想や希望は誰でも持っているのではないかと思う。  例えば死んだあとは天国や地獄に行くのかもしれないし、気が付いたらすでに別の肉体に宿って、それまでとは別の何かに“生まれ変わって”いるのかもしれない。  自死を考えた事がある方には解って頂けると思うが、もう二度と何かに産まれたり、生きる事自体に苦しみたくない、という場合は、『無』や完全なる消滅を切実に望んでいたりもする。  ちなみに今の私は、肉体を持って生まれてくるのはもう二度とごめんだが、これから先まだこの地球上で生きなければならない罪のない生命たちには時には助けも必要であるだろうから、いわゆる『天使』のように、肉体を持たずに、何も犠牲にしないで存在しながらも、陰ながら良き生物を助ける役目が出来たら最高だと思っている。  念のため言っておくと、これは私が特に優しかったり良い人だからなのではない。  弱者や人間以外の生命に害をなすような悪い人間は今すぐにでも絶滅しろとも思っているし、これから数千年先も人間のほとんどが今のまま他の生物を苦しめながら生きるのならば、いっそ全滅した方がこの星の全ての生命のためになるとさえ思っている。  善人には生き残って幸せになって欲しいが、悪人は出来る限り即刻罰を受けて、二度と同じ間違いを繰り返さないでほしい。犯罪の内容によっては、もし地獄というものがあるのなら、宇宙が消滅するその瞬間までそこで被害者の痛みを感じながら苦しんでいて欲しいとも思う。  そんなこんなで、いわゆる『死後』についての理想も人それぞれだと思うのだが、そんな『死』であっても、もし生まれ変わりがあるのだとするのなら、これだけは共通するのではないだろうか。 『一度死んで生まれ変わるという事は、自分の記憶をリセットする事』。 “前世の記憶がある”という特殊な場合は別だが、基本的には死というのはそれまでの人生が終わる事であり、次に新しい人生が訪れるとすれば、その時には前回の自分の人生などは、ほとんど忘れてしまっていることが大前提であると思う。  そして今生きていることが辛い人ほど、自分が経験してきたそれまでの人生など、無かったことにしたいし、忘れてしまいたいと思っているからこそ、『死にたい』のではないだろうか。  そう、赦せないからこそ、苦しいのだ。  自分がされた事、自分がしてしまった事、自分が産まれてきてしまった事。  だからこそ、自分自身を殺そうとする、自分自身を消滅させたいと願う。  だが、大抵の場合、それは“相手”がいたからこそ、知らぬ間に持ってしまった自意識ではないだろうか?  例えば、虐待してきた親だったり、いじめてきた同級生だったり、訴える事は出来なかったものの、犯罪ともいえる行為や心を傷つける発言をしてきた上司や同僚、見知らぬ誰かだったり。冷静に考えてみれば、自分自身よりも、自分ではどうにも出来なかった相手の人格や人生の問題という事も多いのではないだろうか。  そんな赦したくても赦せない相手を赦したい、忘れたいと思った時、試してみて欲しいのが、『自分を0(ゼロ)にして考える』という事なのだ。  例えば私の父の場合。  私の祖父母である『父の両親』に、父がどう育てられたかなどを考えてみる。  父親に自分の行いとは無関係なところでも、日々怒られたり怒鳴られたりする可能性があるのなら、自分を守るために日常的に嘘をつく性格にもなるのかもしれない。  また、自分を守ってくれる存在であるはずの母親にバカにされたり、見捨てられたように感じていたのなら、その怒りが事あるごとに吹き出しても仕方がないのかもしれない。  そういう二人に育てられた父の性格が歪んだのも無理はないのかもしれない。  これに私という、自分の人生を絡めて考えると、「それでも自分の子供が生まれたんなら、父は私たち子供にだけは、そういう惨めな思いや怖い思いをさせないために、つまらない事でいちいち怒鳴ったり、嘘をついて家族に罪を擦り付けるような事はしない生き方を選べるんじゃないの?」という気持ちになる。  だからこそ、自分がまるでこの世界に産まれていないかのように、自分を0にして考えるのだ。  そうすると、相手のした事は赦せなくとも、そういう人間がどうしてこの世界に存在してしまうのかという理解には繋がる。  それでは祖父母の人生はどうだったのだろうと遡って考えてみると、祖父の若かりし頃は戦時中であり、上官に何もなくとも殴られたり、怒鳴られたりは日常茶飯事だったそうだ。  多感な時期に命を国に搾取されるような不条理な生き方を強制され、戦争が終わればそれまでとは真逆の人生観で生きなければならなかったという時代に生きた人々の心の葛藤や辛さは、察するに余りある。  どんな時代でも完璧な人格と愛情をもって子供を育てることが出来る人は少ないのかもしれないが、憎んできた人間がどのように育てられ、どんな扱いを受けてきたのかを知る事によって、相手が存在する事自体は仕方がないと赦せるようになるのかもしれない。  念のため言っておくが、相手の赦しがたい行為や言葉などを仕方がないと赦すわけではなく、相手がこの世界に存在してしまったという現実を赦すのだ。  そうしない限り、「なぜ自分がこんな目にあったのか」「なぜこんな酷い人間が存在するのか」という事を自分が死にたい気持ちになるたびに、際限なく考え続けてしまう。  考え続けるという事は、自分の頭の中にその憎むべき相手を永遠に住まわせるのと同じである。思い出すたびに脳の神経細胞がその相手に関する記憶をより強く、早く思い出すようになるのだ。それを防ぐために、相手の事を意図的に頭から追い出すクセをつける必要があるのだ。  さらに言うと、他人を恨み続けて苦しいのは、実は自分の方だけなのかもしれない。  そもそも他人を傷つけても何も感じないような無神経な人間は、傷つけた人間から恨まれようが悪口を言われようが自分に甘く都合の良い解釈しかしないし、正当な指摘や注意にすら、逆恨みさえするかもしれない。  ネットなどで暴露して、相手に社会的な制裁を加えたい場合は別だが、復讐したいかどうかも人によるだろう。  相手に二度と関わりたくない、もう思い出したくないが、どう対処したら忘れられるのだろうかという時に、一度自分を0にしてみる事を考えてみてほしい。  本当に自殺して、あなたが自分の命と人生を0にしてしまう前に、自分がこの世から存在しなくなるというのはどういう事なのかも、同時に理解できるようになるかもしれないから。  そして、それでもその存在自体すら赦せない相手なら、無理に赦す必要はないのだ。  仮に相手の存在や罪を赦せたとしても、握手や会話が出来るようになるわけではない。  考えるだけで拒否反応が出たり、パニック発作に襲われるようならば、とにかく、相手と距離を置くことが必要だ。  最後の章では、そんな相手と物理的、精神的に距離を置く方法を、ブラックユーモアを交えて提案してみようと思う。
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