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◆四.命とは、自分が自分でいられる時間
◆命とは、自分が自分でいられる時間
私が子供の頃、ふと、「もし次に、違う体の中で“『私』が『私』”だと思ったら、それはもう、生まれ変わった『私』なんだよなぁ」と考えた事がある。
意味が解らないかもしれないが、今の自分が自分であると感じ、考える事が出来るのは、今この肉体に自分の意識が宿っているからなのだなぁというか。この体で自分を自分だと思えるのは、おそらくこの人生一度きりなのだろうな、という当たり前の事ではあるのだが、死んでしまえばもう二度と、この体で「私が私」だと思う事はないのだという事実が、不思議な感覚としてとらえられたのだ。
これから先、どれだけ生きるにしろ、そんな『自分』をどんな人間か定義できるのは、自分だけなのだ。
もちろんこの文を読んでくださっている今でも、こんな自分自身だからこそ嫌いで、消えたいのだと思っている人もいるかもしれない。だが、それはそもそも、他人に左右出来る事ではないのだ。
私はあなたの外見や心の中を操作出来るわけではないし、ましてや金銭的な問題を解決したり、仕事や住宅を与えてあげられるわけではない。
ちなみに、もし私が世界一の大金持ちだったら、動物好きで居場所のない人に居場所のない動物たちをお世話して可愛がってもらえる、ティアハイム(殺処分しないで飼い主さんに譲渡する、理想的なドイツの動物保護施設)を世界中で運営したいと思っている。
もちろんこれは今現在大金持ちの皆さんが実行していただいてもいっこうに構わない。
たとえ大金持ちでも、心の中まで幸せかどうかは、その人にしか解らない。
例えば、産まれた家が先祖代々の恵まれた家だったとしても、子供の時から親に何か買ってもらう度に、「大人になったら倍にして返せよ」「お前が産まれてから金がかかって仕方ない」などと言われて育ったならば、自己肯定感はとても低くなるだろうし、成長するごとに生きていることそのものにプレッシャーがかかってゆくのではないだろうか。
逆に、貧しい家に産まれ、年に一度、誕生日にしか好きな物を買ってもらえなかったとしても、大事な時に「産まれてきてくれてありがとう」「いつも好きな物を買ってあげられなくてごめんね、でもあなたの事を本当に大事に思っているよ」と親に心から伝えてもらえたなら、自分の命そのものが、かけがえのないものに感じられないだろうか。
もちろんこれは極端なたとえ話で、裕福でも温かい人情のある家庭もあるだろうし、貧困ゆえに家族が厳しく、辛い思いをさせられる事もあるだろう。
だがそれは、自分の心で生きてきた、当の本人にしか解らないのだ。
そして、あなたが今もまだ自分や他人が赦せず、死にたいままだとしても、そんな自分を好きになれる道はまだまだ沢山あると思うのだ。
例えば私は、子供の頃から、めったな事では食事を残さない。
それは命を提供してくれて『食べ物』となった生命に対する、最低限の礼儀だと思っているからだ。
出来る事ならば、頂いた命を無駄にしないためにも、餓死に近い状態で逝くのが本来の理想的な死だとすら思っている。
ずっと死にたいと思ってきたからこそ、災害時にもパニックにはならない。
今更逃げる気もないし、自分だけが助かろうなどという気もないからだ。
まだ発表していない物語の続きが心残りで、後悔はあると思うが、恐らくこれから先も、他人を犠牲にしてまで生き延びようとはしないと思う。
この二点だけは、私が私であって誇れる点だと思う。
本気でいつでも死ぬ事が出来るのなら、その人の価値は無限大だとすら言える。
正義のために戦う事もできるし、命をかけて他者を救う職業に就く事もできるだろう。
『死』という概念に強く、『死』を身近に感じても恐れる事がないのならば、例えば警察官や法医学者、葬儀社や遺品整理を含めた特殊清掃等、常人ではなかなか就くことのできない、死にまつわる重要な仕事に適性があるのかもしれない。
あなたは自分で思っているより、はるかに必要とされる人かもしれないのだ。
そして何よりも、辛い気持ちで生きている人の気持ちが理解できるだろう。
一般的な常識や良識内では計り知れないような苦しみを体験してきた人でないと、理解できない心情や現実があるのだ。
どれだけ有名で権力を持った人でも、多くの人間を間違った方向に先導することもある。
無名で一見どこにでもいそうな人でも、思いやりのこもった笑顔や言葉で、その日一日の誰かの命を救っているのかもしれない。
居場所のない人に居場所を作ってあげられるのも、実は同じような経験をした人だからこそではないだろうか。
一人一人の力は小さなものかもしれないし、出来る事も多くはないもかしれないが、弱者を排除するのではなく、理解し、守ること、それが私たちみんなが遂行できる『使命』なのかもしれない。
ある本で、インドに到着した作者が、犬を棒で叩いて追いまわしている子供たちを見かけるという描写があった。
私はこれを読んだ時、「なぜ作者は子供たちを注意しないのだろう」と憤りを感じた。
だが良く考えてみれば、インドにはカースト制度がある。
仮にこの子供たちが下位のカーストやそれ以下の属性しか与えられない存在で、毎日意味もなく上位のカーストの人間から侮辱され、殴られるなどの暴力を振るわれていたとしたら、「犬を虐めてはいけない」と、どう教えたらいいのだろう?
それは例えば、同級生を虐める子供たちが、家に帰れば親や家族に虐げられていたり、会社で理不尽なパワハラを受けている父親が、妻や子供たちに暴力や暴言を振るうようになる事とも似ている。
自分自身が不条理な暴力や嫌がらせの犠牲になっている人に、他の存在に当たってはいけないと諭しても、机上の空論なのかもしれない。
だが、一つ確実に言えるのは、自分よりも弱い存在に当たり散らすように暴力を振るったとしても、その人に暴力を振るう人間の行動を止める事には決してならないという事だ。
自分一人の言葉や行動では、かき消されてしまう事もあるかもしれないが、同じような痛みを知る人たちが声をあげ続けたなら、それを知った人たちの心や認識を変えられるかもしれない。
自分さえ我慢すればと優しく生きている事もとても尊い事だと思うが、自分たちと同じような辛さを持った人が世界中に数えきれない程いるのかもしれないとしたら、黙っているよりも発信していった方が、まだ自分の人生に納得がいくようになるのではないだろうか。
幸い、現在はインターネットというものがあり、匿名でも声をあげやすい世界になっている。
自由に声をあげたくてもあげられない国や宗教や因習に苦しむ人たちのためにも、出来る立場の人たちが出来る事をしていく事が大事なのではないかと思う。
長い時はかかるかもしれないが、いつか制度が変わり、政治が変わり、世界が変わるかもしれない。
そしてもし、これを読んでいるあなたが今、日常的に誰かを虐めてしまったり、家族に対して毎日のように高圧的な態度を示してしまっているとしたら、あなた自身の人生のためもにも、今この瞬間から、それを止めてほしい。
いつも自慢や嫌みばかりで相手の態度が鼻につくとか、そもそも相手の方が先に自分を攻撃してきたのだとか、あなたにとってはきっかけになったと言える、もっともな理由があるのかもしれない。それでも、ケンカでも話し合いでもなく、相手を追いつめるほど一方的に酷い目に合わせる事は、やってはいけない事なのだ。
そしてもし相手が、まだあなたに「~するのは止めてほしい」、「~して欲しい」と言ってくれているのなら、それは相手があなたがまだ良い意味で変わってくれると期待してくれているからだ。何も言わなくなった時、それはあなたが赦されたわけではなく、あなたの在り方に諦めがついてしまった時なのかもしれない。
相手はそれほど気にしてはいないと思っても、他人の心の中までは解らない。
もしある日突然、その人があなたの名前を公表して命を絶ったとしたら、それから一生、あなたの名前はネット上で人殺しとして残っていくのだろう。
その後でどれだけ反省しようと、後悔しようと、相手の命が戻らないように、あなたの人生も戻らない。
そうなってから謝ったとしても、もう遅いのだ。
それはあなたのこれからの人生の、全てを破壊するかもしれない。
自分がどう育ってきたか、どう感じて生きてきたかという現実は変えられない。
だが、そこにどんな意味を与えて、だからこそ自分がこれから先どんな人間になるかは、今この瞬間から変えられる。
一生他人からは理解されないかもしれないし、誤解されたままかもしれない。
それでも自分がどんな人間になるかを選べるのは、自分だけなのだ。
私には誰かが自らの命を絶つ事を止める権利はないし、私自身、今後の人生でどんな道を選ぶのかは解らない。
我ながら自分勝手な意見だとは思うのだが、それでも、心の美しい人や何の罪もない人には幸せに生きて、出来れば同じように懸命に生きている、他の生物の命を守ってほしいと思うのだ。
あなたは、これからの自分という人間の人生を、どんな風に生きるのだろうか。
いつか終わりを迎えるその日を、お互いに出来るだけ穏やかで幸せな気持ちで迎えられるように願う。
どうか全ての命が、できるだけ幸せな最期を迎えられますように。
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