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◆二.『何で解ってくれないの!?』の最高値が『殺意』なのかもしれない
◆『何で解ってくれないの!?』の最高値が『殺意』なのかもしれない
平成三十年八月、父方の祖母が入院するまで、私の家は毎日怒鳴り声の絶えない家だった。
父方の祖父が亡くなるまでは祖父が、祖父が亡くなってからは父が、本当に毎日一度は、祖母を怒鳴りつけていたからだ。入院してから一ヶ月弱、亡くなった祖母は九十八歳だった。
祖父が亡くなったのは、平成十八年の八月。その日はちょうど父の誕生日だった。
祖母が亡くなったのは、平成三十年の九月。その日は私の誕生日の翌日だった。
さらに親戚にももう一例、誕生日が親御さんの命日だという人がいる。
嘘のようだが本当の話で、家族の誕生日やその翌日が命日になるというのも、何か因縁めいたものを感じる。親不孝を『忘れないように』というメッセージなのだろうかとも思う。
私が子供の頃の家族構成はというと、農業をしていた父方の祖父と祖母、共働きの父と母、兄一人と私という、六人家族だった。
ちなみに父が三兄弟(弟一人、妹一人)の長子で、母もまた三兄弟の長子(弟二人)だ。
兄と私は三歳離れていて、実は兄と私が産まれてくる間に、もう一人兄がいたらしい。
私の二番目の兄は、産れてすぐに亡くなってしまったそうだ。
いつだったかは覚えていないが、物心ついた頃に教えられたこの件も、私のセルフイメージに深く影響を与えている。
子供の頃、小学校の二~四年生頃の私は、『敬老の日』の作文を、たくさんの人の前で発表した。
当時の学年代表か学校代表かの何かに選ばれたらしく、普段は着ないようなピンクのワンピースを着て、別の小学校の体育館で作文を読まされたことが、今でも記憶に残っている。
当時は人前で目立つ事が嫌で嫌で堪らなかったため、選ばれた後も職員室でも泣いて担任の先生を困らせた事も覚えている。
そして作文発表で録音された私の音声は、恥ずかしいから止めてくれと言っても聞かず、家で父がテープで何度も大音量で流したために、『目立つ=恥をかく』という軽いトラウマにもなっている。
さて、当時はなぜ私の作文が選ばれたのか解らなかったが、今なら何となく理解できる。
その時の私は、祖父が祖母を怒鳴る理由を、『祖母の耳が遠いせい』だと思っていた。
あいまいな記憶だが、そういう説明を母や家族から受けていたのだ。
『お祖母ちゃんの耳が遠いから、お祖父ちゃんがいつも大きな声で怒鳴るのです。でもこれからは、あまり怒鳴らないでください』
そういう内容の作文を書いて読んだ記憶がある。つまり、事情を察することの出来る大人から見れば、これは今でいうところの『家庭内でモラハラDVがあるようだが、それを健気に止めようとする幼気ない子供』の図になっていたのだと思う。
当時はまだモラハラという言葉も知られていなかったであろうし、DVという概念も世間に浸透していなかった時代だったと思うが、なにせ小学校低学年程度の子供の事だ。
自分の家が『普通』の基準なのだから、何かが変だとは思っても、それが一般家庭で良くあることなのか、そうでないことなのか、気が付けなかったのだ。
ましてや、祖父は私や兄、母には優しかった。
私に向けられた祖父の顔は、今でも優しい笑顔のイメージだ。
私や兄が理不尽に怒られた事はなかったし、共働きの両親に代わって、幼稚園の迎えなどもしてくれ、大きくなった後も、とてもよく面倒を見てくれた。
野菜を売り行く市場の手伝いをした後には、ラーメンや甘太郎焼きのお店に連れて行ってくれたり、とても器用に竹トンボや竹馬などのオモチャを一から作ってくれたりと、私にとっては『良いお祖父ちゃん』でもあったから、余計に何がおかしいのか、解らなかったのだと思う。
小学校の高学年、中学生くらいになってようやく、毎日それほどの理由がなくても怒鳴りつけるのは、祖父の性格がおかしいのではないかと気付くようになった。
祖母はというと、いつもお茶の間の自分の定位置で、怒鳴られてもけっこう平気な様子でニコニコしていたから、構図としては『忍耐強い祖母と、短気な祖父』で、ほぼ全面的に祖父が悪いのではないかと、理解するようになったのだ。
ただし今になって思えば、これも間違った、一方的な見方だったと思う。
祖母は祖母で、笑顔で人の心の傷をえぐる様なところもあったし(思えば実際、私も色々と嫌味と無神経な行動の数々で酷い傷を受けてきたのだが)、最近になって母の話を聞くと、ずいぶんと何もしない姑だったように思える。
例えば、母がママさんバレーでアキレス腱を断裂した時も、祖母は家事のいっさいを手伝いもしなかったそうだ。(当時の私や兄は小中学生で、母の口から家事の大変さや祖父祖母に対する文句などは聞かされていなかった。良くも悪くも、『昔の嫁』タイプの母なのだ。)
そもそも母がお嫁に入ってから、食事の支度なども一切手伝わなかったそうだし、共働きの上に私たちがまだ小さく子育てが一番大変だった時期にも、出勤前に風呂掃除をしている母を見て、「風呂掃除っていうのは、そうやるのかい」と感心したように言っただけで、手が空いているのに何もしてくれなかったという。
そういった数々のエピソードなど、“当時は言えなかったが”、という感じで大人になった私に母が話してくれた出来事を聞くと、祖母は祖母で大いに問題があったから、口では勝てない祖父が激昂することになってしまったのかもしれない、とも思うようになった。
そう、思い返せば、学校から帰ってきて洗濯物を畳んでくれていたのは主に祖父だったし、お風呂の支度をしてくれていたのも祖父だった。祖父がインスタントラーメンなどを作っていた記憶はあるが、祖母が何らかの料理をしていた記憶はほとんどない。
祖父が亡くなってから、祖母は急激に惚けてしまったが、よくよく考えれば、彼女は口先だけで人を動かすが(主に罪悪感から動くように)、自分自身は棚に上げて、自らは一歩も動かない人間だった気がする。お茶の間の、炬燵の定位置にいた記憶しかないのは、ほとんど自分では何もしない、そこから動かない人だったからではないかと、今なら思える。
祖母は小柄で丸みがあり、見た目は笑顔で人当たりも良さそうなだったが、眼鏡の奥の目は冷たく、人を傷つける言葉はいくらでも言うが、自分では何もしないタイプの人間だったようだ。
これも母から大人になって聞いた話だが、祖母が嫁入り前に実家にいた頃は、「姉らが全部やってくれた」らしい。祖母のお姉さんたちが全て面倒を見てくれたそうなのだ。
ずいぶんなお嬢様気質のようにも思えるが、放っておいても懇願しても、『あまりに何もしないから、周囲が動かざるを得なかった』、だからみんな「やってくれた」んだよ!
と、今は亡き祖母に心を込めて突っ込みたい。
そういう訳で、今は祖父と祖母に対しては、どちらか一方が悪かったわけではなかったのかもしれないな、と思える。これは、祖父が祖母よりも早く亡くなったからこそ、気が付けた事なのだ。もし祖母が祖父よりも早く亡くなっていたら、「祖母は祖父にいじめ殺されたようなものだ」と、今でも『怒鳴る祖父』が悪いと思っていたに違いない。
問題は私の父である。
祖父が病で亡くなったあと、これでもう家で怒鳴り声が響くことはないのだと、亡くなった悲しみとはまた別にどこか安堵する気持ちもあったのだが、今度は父が、祖母に怒鳴り散らし始めたのだ。
元々、父は祖父母と仲が悪く、家にいてもほとんど話さないか、時々話せば怒鳴り散らしてはいたのだが、それはどちらかと言えば、祖母に怒鳴る祖父に対しての怒りのようなものだと思っていた。
後述もするが、そういう環境で育ったのなら、怒鳴り声の中で生きることが、子供にとってどれほどの苦しみか、父は誰よりも知っているはずなのだ。
父は私が小学生の頃、鬱病で一月ほど入院していた事があるらしい。
らしい、というのは、当時の私が質問しても、『精神的な病の事は口にしてはいけない』という、母からの無言の圧力があったためだ。何か人には言ってはいけないような、恥や隠すべき事実として、刷り込まれてしまったのだ。
おかげで私には、心がどんなに辛くても、精神科に通うという選択肢は、ないも同然だった。
現在ではメンタルクリニックに通うことや、カウンセリングを受けることは、人として当然の権利であり世間的に恥ずべきことではないというのが常識になっていると思うが、私の場合は、ごく単純にいって、両親や他人に自分の心の辛さを打ち明けられるような人生ではなかったのだ。
ちなみに、心療内科や精神科の通院歴があったり、精神疾患の症状によって保険の加入が難しい事もあるようなので、これから保険の加入や、心療内科に通うことを考えられている方は、よく調べてみる事をおすすめする。
当時の父は仕事を休む事が多く、家族に行き先も告げずに出かけてしまうことも多かった。
大抵の行き先はパチンコ屋などだったと思うが、そういう父を祖母はよく、「しょうがねぇ父ちゃんだなぁ」と笑って評していた。
父よりも八歳も年下の母は、当時から家事も育児も仕事も、完璧以上にこなしていた。
今でもそうだが、母はまるでスーパーウーマンのようだった。
ついでに言うと美人で働き者で気立ても良い母が、なぜ父と結婚したかも不明である。
だが世間にも、こうしたカップルは沢山存在するわけで、そういった重荷を一方的に背負った方には、ご愁傷様です、お気持ちお察しいたしますとしか言いようがない。
結婚前には最高の外面を見せ、自分のためならば息を吐くように嘘をつく人間もいるのだと、私は父から反面教師として学んでいる。
そう、祖父にはある程度怒鳴る理由があったのかもしれないが、父の場合は、どう考えても大した事ではないような祖母の行動にも、ただ怒りをぶちまけるだけだったのだ。
例えばトイレの電気をつけっぱなしにするなど、父自身こそ時々やるような失敗でも、棚にあげて。
というか、何度も水を盛大に出しっぱなしにするなど、父の方がよほど質の悪い失敗は多い。
それなのに、百歳も間近の認知症(老人性痴呆症)の自分の母親に対して怒鳴るのである。
父は昼も夜もなく怒鳴ったが、特に深夜に一階の寝室で祖母が起きて、父を呼んだ時には酷かった。主にトイレ(祖母の部屋から歩いて数歩の距離にある。ポータブルトイレも母が部屋の中に準備してあった)を使いたいという事や、喉が渇いた、何か怖い夢を見て不安を覚えたという理由で起きてしまうのだが、それに対して、普通に優しく対応すれば良いものを、いちいち「いいから早く寝ろよ!」などと、真夜中の二時や三時にも、二階の私の部屋に響くような声で怒鳴った。
祖母は認知症の症状が酷くなってから、昼間でもずっと吐く息と共に「あ~」と「う~」の間のような唸るような声を出していたし、父もそれに対して煩いと怒鳴りつけるのも毎日の事だったしで、私が小説を書く事などに集中できるのは、二人が寝静まってからの頃だった。
そして、深夜も過ぎてようやく自分も眠れるとウトウトしたところで、父の大声で目が覚める。こんな事も、日常茶飯事だった。というか、本当にほぼ毎日の事だった。
しかもそれでいて父は外面だけは無駄に良いので、周囲にはいかにも自分が介護しているかのように語るのだ。
「飯を喰え」、「早く眠れ!」と、ただ「あれをしろ、これをするな」と怒鳴りつけるのは介護ではない。
実際に祖母の昼間の食事を用意して、食事の後の汚れた床やトイレの掃除などをしていたのは私だし、毎日風呂に入れ、下の世話から着替えまで、全ての事を完璧と言って良いほど至れり尽くせりの世話をしていたのは、日中出勤して働いている母だった。
ちなみに父は定年してから、基本的に大半の時間をゴロゴロと家で寝て過ごしている。
それなのに、尋ねてくる介護指導者の女性にはいかにも自分が優しく面倒を見ているかのような口ぶりで接し、電話口でも自分が世話をしているかのように祖母の様子を話していた。
あまつさえ祖母の葬式での弔辞の言葉でも、さも自分がいつも介護をしていたかのような自己満足丸出しな文面を創作するなど(母に止められ、周囲への感謝を伝える、まともな弔辞に変更されたが)、自分を守るための嘘ならいくらでも平気でつき、特に女性への外面だけは異常に良いという二面性を良く知っている分、本当に未だに許せないのが、私の父なのだ。
そう、正直に言って、私は自分に嘘をついてまで、父を赦したふりをするつもりはない。
言葉だけなら、いくらでも私は『悟りました』『赦しました』『皆さんも自分のためにも相手を赦しましょう』という事ができるが、それでは嘘になる。
もちろん、これを読んでいるあなたが、いつか自分が死にたくなるほど憎んだ相手を赦せるのなら、それは幸せなことだと思う。本心から嘘偽りなく赦せるものならば、それはそれで最も尊い心の在り方の一つだとも思う。
私も何度か父の事を赦そう、と思ったことはある。
だが毎日のように、というか本当に毎日、毎日、何十年間も変わらず、何度言っても理解してくれない相手が目の前にいると、赦す赦さないの問題ではなくなるのだ。
「怒鳴られるのは怖いのだ、もう止めてくれ」と泣きながら叫んでも、その日のうちにもう祖母を怒鳴りつけているような父なのだから。
ここで一つ、私のように人生の貴重な時間を無駄にしないために、知っておいて欲しい事がある。
『三回言って変わらない相手は、その後三十年、変わらない可能性がある』。
私は相手がいつか解ってくれる、理解して自身の言動や行動を直してくれる、そう思って子供の頃から大人になるまで、何十年もどこかで相手(ここでは父)に期待していた。
だが反省しない人間は、いつまでたっても、例え老人と言われる年齢になっても変わらないものなのだ。
想像してみて欲しい。あなたが今後三十年間、憎い相手や理解して欲しい相手に、同じような怒りや憤りを向け続けても、相手は何も変わらないのだ。相手はノーダメージ。なぜならそれが無神経な人間の生き方だからだ。
一方こちらはストレスで蝕まれてゆく。相手がしてくれなかった事は、自分か他の誰かが我慢し続けるか、尻拭いをしていく事になる。
試しに三回、お願いしてみよう。例えば……
一、最初は何気ない感じで。
二、次はなぜそうして欲しいのか理由をつけて優しく。
三、最後は本気で言っているんだという意味が伝わるように、やや怒りを込めて。
【例】
一、「自分で飲んだペットボトル、洗って分別してくれる?」
二、「ペットボトルってさ、ちゃんと洗って分別しないと、リサイクルできないんだよ。プラスチックごみ増やしたくないから、自分で飲んだものくらい、自分でちゃんと始末してね」
三、「飲んだままいつまでも片さないから、結局お母さんが全部洗って分別する事になるんでしょ、しかもペットボトルの飲み物飲んでるの、お父さんだけだし! 毎日一本は飲んでるんだから、それくらい自分でやりなよ!!」
まあこんな感じで。
ちなみにセリフはこの通りではないが、例えばこれが我が家の現実の一つなのだ。
何回言っても、良くてその日か翌日だけ、三日目には確実に何もしなくなるのが父。
しかも基本的にはうちでゴロゴロしているだけで、時間はまさに死ぬほどあるはずなのに。
祖母にはあれだけ毎日あれをしろ、これをするなと怒鳴っていたにも関わらず、自分がすべき事はしないで放置し、やらなくて良い余計な事はいくらでもする。それが私の父である。
余談だが、某旦那さんへの不満を語る掲示板を初めてネットで拝見した時、「うちの父みたいな人がこんなに沢山いるんだなぁ」という共感と驚きと共に、怒りを覚えた。
他人から見れば一つ一つは些細な事かもしれないが、日々全てにおいて、こうしたことの積み重ねがあると、最終的には『殺意』に近いものになるのだ。
「これだけ言っても解ってくれないのなら、いっそいなくなってほしい」と。
そしてその殺意も、例えば家族や恋人など、本来なら愛情や信頼で結ばれるべき相手に向けていると、一周廻って自分への殺意に変わることがある。
「恨むのがこんなに辛いのなら、(本来)大事な相手を憎むのなら、いっそ自分の方が消えてしまった方が楽なのではないか」と。
話を戻そう。
つまり、三十年間本気で怒っても変わらない相手は変わらないのなら、その三十年という時間はまったくの無駄になるのだから、『いっそ諦めて別の事に時間を費やした方が、自身の人生のためになる』、という事だ。
諦めるのと赦すのは少し違う。ただ、相手に期待するのを止めると、楽にもなるが、相手と話す気もなくなるのだ。話しても無駄、だから避ける。だが相手の方は反省していないので、なぜ自分が避けられ、冷たくされるのかが理解できない。
また、諦めたからといって、やはり誰かが時間をとられたり、後始末をさせられたりする。
そうすると、結局恨みつらみは溜まっていく事になるから、一瞬でも怒りを発散させるか、気を紛らわす手段が必要になる。
という訳で、どれだけ役に立つかは解らないが、殺したくなったり、死にたくなったりする気持ちを和らげるために出来ると思われる、いくつかのアイデアや気の持ちようの提案をさせていただこうと思う。
私自身、まだ怒りや恐怖のコントロールが出来ない事もあるが、少しでも共感していただき、こんな考え方もあるんだと、ご笑覧いただければ幸いである。
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