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◆三.『理解されない』=『愛されていない』ではない
◆『理解されない』=『愛されていない』ではない
そもそも、なぜ相手が理解してくれないだけで、こんなにも辛いのか。
大きな理由の一つとして、『愛してくれているのなら、理解してくれるはず』という、大前提の思い込みが刷り込まれているからではないだろうか。
恋愛や家族愛をテーマに、これまで描かれてきた美しい名作の数々には、『お互いの間に真実の愛があれば、黙っていても心が通じる』、『喧嘩したり誤解があっても、最後にはお互いに理解し合い、絆を取り戻す』形のハッピーエンドが描かれていると思う。
結局のところ、『もし相手が自分を愛し、大事に想ってくれるのならば、多少我慢や無理をしてでも、相手の方が変わってくれるはずだ』という期待こそが、自分を辛くさせているのではないかと思う。
私の場合で言うと、『もし父が私たち子供や家族を本当に愛しているのならば、怒鳴り声の響く家庭などにはしなかっただろう』という事だ。
父が怒鳴る祖父を見て、辛い思いをしてきたとしたらなおさら、自分はそうしないという選択肢を取るべきではなかったのか。
少なくとも私はそう思うし、どんなに父に怒りがわいていたとしても、ペットの猫たちが見ているとなれば、瞬時に「ううん、全然怒ってないよ。もきゅん、もきゅん♪」と、まったく別の人格が発動するかのように気持ちを切り替えて対応できるように、自分をコントロールするくらいには心の修業をつんでいる。
正直に言って、もし逆に子供の頃からペットを一匹も飼ってなかったら、とっくの昔に父を刺して、自分も死んでいただろうと思う。
そのため、ニュースで時折見かける家族間の傷害事件や殺人事件も、まったくの他人事とは感じない。
究極の結論を言ってしまえば、私はたぶん、『愛されない自分』が辛かったのだ。
本来ならば当然のごとく理解され、愛されるべき家族という絆のもとで、自分をそう感じられない事が辛かったのだと思う。
では考え方を逆転させて考えてみよう。
『愛されていない』事は、『理解されていない』事と本当に同じだろうか?
自分以外の他人の人生や頭の中を、どれだけ理解できるだろうか?
例えば『アインシュタインの相対性理論を説明しなさい』と言われたとする。
私には無理だ。教育番組等でなんとなく解ったような気がするだけで、自分の口で一から説明しなさいと言われたら、とても無理だ。もっと簡単な数学問題でもきっと無理だ。
誰にでも、苦手なジャンルはあると思う。数学は大得意でも、絵を描くのは不得意だという人がいるように、自分にとっては『なんでこんな簡単な事が出来ないの?』ということが、相手にとっては『なんでそんなに難しい事が出来るの?』だったりするのが人間だ。逆もまたしかりである。
結論として、『相手は理解できない人なのだと、こちらが理解する』方が早いのではないかと思う。
つまり、『相手の気持ちを思いやることが、もの凄く苦手』で、『自分さえ良ければ他人がどんな思いをしようと関係ない』という人間も、この世には一定数存在するし、運の悪い事に、それがたまたま自分の周囲にいるのかもしれない、という事だ。
確かに、それが簡単な事であるほど、ほんの少しの愛情や思いやりがあれば誰にで出来そうなことほど、「そうは言っても、これくらいの事は誰でも出来るでしょ」と思うのも無理はない。
だってこちらは『こんなに愛してるのに』、『こんなに尽くしているのに』、『こんなに待っているのに』、『こんなに我慢しているのに』『こんなに何度も同じ事を言っているのに』。
どう見てもこちらが正しい、真っ当な生き方をしているほど、相手が理解してくれないのが何故なのか解らない。こちらは正論を言っているだけなのに、なぜ理解できないのか、と思う。
それももちろん正しい。私もそう思うからこそ、怒りが芽生えるのだ。
だが、例えば『毎日怒鳴り散らされる』ことの、本当の恐怖や苦しみを、心底理解してくれる人はどれだけいるのだろうか?
もしあなたが、私と同じように、産まれてからこれまでの間、生きている時間のほとんどを、家族の中で怒鳴り散らす人間がいた人ならば、説明しなくても理解していただけるだろう。
背骨を巨大な氷のハンマーで叩きつぶされるような恐怖。
それも毎日、決まった時間にではなく、ランダムに。
でも確実に、毎日それは起こるのだ。
私ならそう例えるこの恐怖の感覚を、知っている人ならすぐに理解してくれるだろう。
ああ、辛いよね。同じ部屋にいるだけでも、怖くて憎くて、震えが来る。
いつか自分が相手を殺してしまうんじゃないかもしれないという不安と恐怖、怒りで、とてもその場にいられない感覚。無言で逃げ出す事しかできない、絶望。
何度言っても、懇願しても怒ってみても、相手が変わってくれないのだから、こちらが毎日我慢するしかない。だってそうしなければ、自分が死ぬか、相手を殺してしまうかもしれないのだから。
特に子供の頃にそれが日常になってしまうと、何年たとうと、たとえ三十歳、四十歳という壮年期になろうとも、自分が身を守ろうとした幼い年齢の頃に心が戻されてしまうのだ。
身を守るには、大きく分けて、いつも気を張って、もしくは縮こまって、相手の暴力(言葉にしろ、肉体的なものにしろ)に耐えるか、こちらが相手以上に攻撃的になって、正当性を訴えて反抗するかのどちらかしかない。
いつそれが来ても耐えられるように、相手の声や気配を感じただけで、防御体制か臨戦態勢をとるようになるのだ。
日常が戦場のような状態で、精神が疲れないはずがない。相手が変わらないのなら、自分がこの世界から消えてしまった方が早いではないか。
そこまでの想いをした事がない人は幸いだ。
一年にほんの数回、家族と些細な事で口論になっては数時間や数日後には完全に仲直りできるような、『普通の』人生を送ってきた人にはとても理解できないだろうと思う。
そういう人は簡単に言う。『もういい歳なのに、何を甘えているんだ』『家を出ればいいじゃないか、親と距離を置きなさい』と。
それはまず『生きる』と心に決められた人の選択肢なのだ。具体的に協力してくれるわけでもないのなら、その前に、自死を選びたくなる人間をより追い詰める一言でしかない。
ドラマや映画でしか家族の悪口や怒鳴り声を聴いた事がない人には、一生理解できないかもしれない。ああいった作り物の世界では、そもそも音量が一定以上に大きくならないように調整されているし、話の展開から、ある程度はその人物が激昂するだろうとの予測ができる。
そうではないのだ。
もしあなたの一生涯の生活の中で、一日に一回は必ず、スピーカーで最大音量のド下手くそで音痴なオリジナルのヘビメタの音楽を流す人物がいたとする。
それはいつ何時起こるか解らない。
あなたがリラックスしている時でも、仕事に集中している時でも、眠っている時でもだ。
止めてくれと何度懇願しても、いっこうに止めてくれない。
それが赤の他人ならば、警察に通報も出来るかもしれないが、肉親なのだ。
しかも流れてくるその音は、美しい旋律の音楽や、心を高揚してくれる本物の魂の叫びなどではなく、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言で、しかも家族に対する悪意のこもった身勝手で厭らしい自己満足の嫌がらせに近い物なのだ。
それが三百六十五日、何十年も続いてゆく。この先いつ終わるかも分からない。
相手に対する殺意にもなり、自死も考えるほどになる事は、想像してもらえただろうか?
もしあなたが、少しでも理解してくれようと思ってくれたのなら、幸いである。
実は大事なのは、完全な理解ではなく、ある程度の思いやりと、共感しようとしてくれる、意思だからだ。
そもそも、大事な存在になり得る相手や、なって欲しい相手にほど、理解を求めたくなるのが人間ではないかと思う。
以心伝心。それが無理なく、どちらか一方の思い込みでもなく、出来る相手が一人でもいたならば、人間誰しも、孤独や絶望を感じることもないのかもしれない。
だが別の肉体として産まれ、個別の経験をして生きてきた以上、自分以外の存在に対する完全な理解は、不可能だと言って良いだろう。
実際に『相思相愛だが、相手を理解できていない』事もある、という場合もある。
解りやすく、男女の恋愛の一場面を例として、考えてみよう。
ここに、心から愛し合う、一組の恋人同士の男女がいるとしよう。
年齢は男女ともに三十歳前後。お互いに、秘かに結婚するならこの人しかいないと思っている。
女性の方は、出産の事も考えると、年齢的に次の自分の誕生日までには、プロポーズしてくれるのがベストなんだけど、と思っている。
男性の方は、今抱えている仕事に充分な成果が出れば出世の道が開けるし、一生、彼女を支えていく自身がつく。今年いっぱいはそのためにも、仕事に集中したいと思っている。
女性の方は、彼も子供が好きだし、その辺は言わなくても気遣ってくれると思い込んでいる。
男性の方は、彼女も仕事をしているし、自分を信じて待ってくれるだろうと思い込んでいる。
そうこうしているうちに、年の瀬も近づいてきた。
彼は彼女の誕生日は祝ってくれたが、期待していたような事は何も言ってくれなかった。
そういえば実家の親から、知り合いの良家の子息からお見合いの話があると電話があった。
彼のことは、本格的に結婚の話が決まってから報告したかったので、両親には言っていない。
ここは、彼の本心を知るためにも、ちょっと鎌をかけてみても良いかもしれない。
というわけでクリスマス当日。
彼女は彼に、「田舎の両親から、お見合いの話されちゃって」と、軽い感じで話題を切り出してみる。私の事を愛しているのなら、すぐにそんな話は断って、僕と結婚しようと言ってくれるはず。
それを聞いた彼はこう思う。そのお見合い話、保留にしたの?
僕の事を愛しているのなら、すぐに断ってくれるはずじゃあないのか?
ひょっとして、僕よりも条件の良い男が現れるまで待ってた?
黙って機嫌の悪くなった彼に彼女は尋ねる。
「なんで何も言ってくれないの? そもそも私の事、考えてくれてる?」
「そっちこそ何で急に追い詰めるような事言うんだよ、僕だって色々考えてたのに」
「は? 考えてるって何? 考えてるのっていつも自分の事ばっかじゃん。てか、追い詰めるって何。結婚したくないならハッキリそう言えば良いじゃん、だったら私も別の人考えるのに」
「いやいや、自分の事ばっかりなのはそっちでしょ。どうせハイスペックな男なら誰でも良かったんじゃないの?」
「はああああ? ハイスペックって誰の事? 私の方がよっぽど稼いでるんですけど」
「だから……だから仕事頑張ろうって……もう良いよ! 最低な女だな!」
かくして、相思相愛だったはずの男女に、そこそこ取り返しのつかない亀裂が入った。
これは私が作った仮のお話なので、王道のラブストーリー的展開で後に仲が修復されたことにしておく。
ここで重要になるのが、『相手が考えている、“~ならこうするはずだ”は、必ずしも一致しない』、という事だ。
この場合は、最初からお互いの考えを素直に正直に話していたら、「じゃあ来年、結果が出たら結婚しようね! それまでお互い頑張ろう!」で、済んだ話だったかもしれない。
まあこれは極端なたとえ話だが、相手があなたを心から愛していようと、必ずしも期待している通りの反応を返してくれたり、行動が返って来るわけではないという事だ。
だとすれば、相手の行動が酷いものだったり、思うように変わらないからといって、いちいち自分を卑下して相手に失望しても時間の無駄である。
友人、恋人、夫婦、親兄弟、家族だからこそ、わがままに振舞ってもある程度は赦されると勘違いしたまま生きてきてしまった人間も、私たちが思っている以上にたくさんいるのだろう。
では、本当に心から愛されていなかった場合、少なくとも、自分がそう感じてしまっている場合はどうだろう。
実は、私が本当に死にたいと思っていた原因は、心から嫌悪する父よりも、むしろ、尊敬や愛着の対象である、母や兄からもたらされたものだったのだ。
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