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 その店を訪れるのは三年ぶりのことだった。  最後に訪れたのは、あの日、護の渡米を知らされた時のことだ。  カウンターの他にはテーブル席が三つだけの古びたバーは、壁のダーツボードや古びたレコードジャケットも、一枚板のカウンターに壁のように並べられたボトルも、少しもあの頃と変わらない。軋む扉を押して店内に入った瞬間、私は、まるで時の扉を開けた気がして不思議な気持ちになった。  入り口に立ったまま、怖ず怖ずと店内を見わたした。  護らしき人影はない。  それを確かめると、私はほっと胸を撫で下ろした。彼がいないことでほっとするくらいなら、最初から来なければいいのに。  私は、あの日と同じ、カウンターの端に腰を下ろした。  マスターは私のことなど覚えていないようだった。特になにも話さず、たんたんとオーダーを取ると私の前から離れていった。  どうして今さらこの店に来たりしたんだろう。カクテルが届くまでの間、私はあらためて自分に問いただした。  護の姿を見たせいであることは間違いない。彼がこの街に戻っているのならば、以前に馴染みだったこの店に出入りしているはず。そう思ったからここに来たのだ。ならばいったい私は、今さら護と会ってどうしようというのだろう。  そのとき、マスターがカシスオレンジを私の前に置いた。あの頃、何度も連れてきて貰ったこの店で、私がいつも頼むと言って護にからかわれたカクテルだ。 「あの」  再び去っていこうとするマスターを呼び止めて言った。 「これ、ジンフィズに換えて戴けませんか?」  マスターは不審な表情を浮かべた。 「ごめんなさい。お代はお支払いしますから」  私は確かめるためにここに来た。それが、私が自分に出した答えだった。あの頃の愚かだった自分を思い出し、いまがどれほど幸せかを確信するために、私はこの店を訪れた。護に会えても会えなくても構わない。あの日以来、ずっと近づかないようにしていたこの路地に入り、この店を訪れたことに意味があるのだ。  そのためには、あの頃と同じカクテルなど飲みたくはない。  護との思い出の染みついたカクテルなんて。  やがて、ジンフィズが届き、あざやかなオレンジ色のカクテルは下げられていった。  私はそのグラスを取り上げ、ひとくち飲んだ。  さっき駅で見たのが護だとするなら、彼はどこか他に向かったのだろう。だとすれば、すぐにこの店に現れることはないはずだ。  これを一杯だけ飲んだら帰ろうと思った。ぐずぐずしている暇はない。新居への引っ越しもあるし、4日後には両親が上京してくる。その翌日には、先方のご両親と、最後の打ち合わせを兼ねて夕食を共にする約束になっている。  これですべてに区切りがついた。あとは予定通りに式を迎えればいい。そして、陽樹さんを信じて、彼の妻として幸せになればいい。  立て続けにグラスを口に運んだ。そして、早々に飲み終えたグラスをカウンターに置き、席を立とうとした。  そのときだった。 「美帆?」  ひどく懐かしい声に名前を呼ばれた。  体を硬くした私が振り向くより早く、声の主が横から顔をのぞき込んできた。 「やっぱりそうだ。久しぶりだな」  護だった。  綺麗なアーモンド型の瞳に見つめられ、なんと答えていいか分からなかった。  私は、ただ、「うん」とうなずいて視線を伏せた。 「なにしに来たの?」  彼はそのまま隣の席に腰を下ろした。 「なにしにって……」 「俺に会いに来たんだろ?」  半身を私に向けて言った。  相変わらずの自信家だ。 「違うよ。護が戻ってきてるなんて知らなかったもの」  慌てて言った。 「戻って来てるって、どこから?」 「ニューヨークに行ったって聞いたよ」 「ああ、あれ?あんなの半年で戻って来たさ。どんな街かと思って行ってみたけど、つまんない街だったよ」 「そうなんだ。今頃は、きっと向こうでダンサーになってると思ってた」  精一杯の皮肉を込めて言ったつもりだった。  たぶん思うようにならずに帰ってきたのだろう。護らしいと思った。 「あのままいれば、そうなってたかもな。ただ今は演技の勉強をしてるんだ。劇団やってる人と知り合いでさ、俺はそっちの方が向いてるって」 「そう」とだけ答えた。  どうせそれだって中途半端なのだろう。護はいつもそうだ。なにをするときにも、真剣味というものが欠けている。  護は、近づいてきたマスターに向かって、 「いつものヤツね」  と告げた。  続いて、空になった私のグラスを見て、 「あと、カシスオレンジも」  そうつけ足した。  覚えてたんだと思った。私の好きだったカクテルなんて、覚えてなんかいないと思っていた。  そのとき初めて、私は、隣に座った護の顔をまっすぐに見た。  きれいに通った鼻筋とアーモンド型の瞳、整った顔立ちは昔のままだ。ただ、感じる雰囲気はあの頃よりさらに洗練されている。そして、驚いたのは髪型だった。癖毛だったはずの髪はストレートに矯正されていた。つまり、駅で見かけた男性は護ではなかった。私は、彼の幻影を追ってこの店に来たことになる。  そのとき、私の顔を覗き込むようにしてマスターが言った。 「そうか、あのときの子か」  ドキッとして視線を伏せた。  さっき私がカシスオレンジを下げてもらったことについて、マスターが何か言わないか不安だった。しかし、彼は何も言わずに離れていった。それを護に知られずにすんだことに、なぜかホッとしている自分がいた。 「じゃあ、なにしに来たのさ?」  つまらなさそうに護は言った。 「確かめたかったの」 「何を?」 「今の幸せを。あの頃の自分を思い出すことで、今の自分がどれほど幸せか確信したかったの」 「なんだそれ」護は鼻で笑った。「確かめなきゃ確信できない幸せってことか」 「違うよ。幸せ過ぎると分からなくなることがあるのよ。あまりに当たり前過ぎて」  それは不幸せも同じだ。あの頃の私は分からなくなっていた。不幸せ過ぎて。そんな毎日が当たり前過ぎて。 「幸せなんだね。幸せ過ぎるほど」 「私、結婚するの」  左手の指輪に触れながら言った。 「そう」 「とっても素敵な人よ。私のことをとっても大切にしてくれるの。真面目で仕事もできるし、私にはもったいないくらいの人」 「そう、よかったじゃない」  言葉とは裏腹に、口調にはいらだちが含まれているように感じた。それが嬉しくて、続けて言った。 「式は一週間後。新婚旅行はイタリアを回るの。ミラノから、ベネチア、フィレンツェを回ってローマへ。彼、最初は北欧に行きたがったんだけど、私はイタリアがいいって言ったの。そうしたら、美帆が行きたいところに行きたいって」 「ふぅん」  そう言ったあと、護は溜息をついた。 「美帆って、意外と残酷なんだ」 「どういう意味?」 「どうもこうもない、言葉通りの意味だよ」 「どうして私が残酷なの?それを言うなら、護のほうがよっぽど残酷じゃない」  わずかに声を荒げて言ってしまった。  むきになってはいけない。そう思っていても、心が昂ぶるのを抑えきれなかった。 「たしかにね。俺は美帆に、ずいぶん酷いことをしたからな」 「護の口から、そんな言葉を聞くなんて思わなかった」 「人は変わるんだよ」  ポツリと彼は言った。  やがて、私の前にカシスオレンジが置かれた。  続いて護の前にも、ソーダ割りらしきグラスが届く。 「じゃあ、乾杯しようか。美帆の幸せのために」  戯けて言いながら、護はグラスを掲げた。 「祝福してくれるの?」 「あたりまえだろ」護は笑った。「俺さ、美帆にはずっと謝りたいと思ってたんだ。まさかこうしてまた会えるは思わなかった。ふたりの再会の祝福も合わせて……」  乾杯、とグラスを合わせた。  グラスを口に運ぶ。甘みと微かな酸味が口いっぱいにひろがる。とても美味しかった。私はやっぱりこのカクテルが好きなんだ、と思った。  その後、護は、最近勉強しているというお芝居について話してくれた。彼にしては真面目に取り組んでいるみたいで、上達が早いとほめられているそうだ。すでに、定期的に舞台にも上がっているらしい。見てみたいと思った。あの頃、一緒に行ったダンスクラブで踊っている護を思い出した。彼が踊り出すと、いつも周囲がいっせいに注目し始める。そんな視線の中、踊り終わった護のもとに歩みよるとき、私はいつも喩えようのない幸せを感じていた。  そして話が一区切りつくころ、私の前には二杯目のカシスオレンジが置かれていた。  この日三杯目のカクテルは、私にしては少し過ぎた量かもしれない。胸の鼓動が早まり、体がふわふわしている。 「指輪、見せてくれない?」  護は、いきなり左手をとった。 「素敵な指輪だ。美帆によく似合ってる」  指先で薬指の指輪を愛でながら、彼は言った。 「ありがとう」  苦しいほど胸の鼓動が高鳴っていた。それはもはや、お酒のせいではなかった。 「俺があげられたらよかったのに」  彼の指先は、指輪だけでなく、手の甲を愛で始めていた。 「護……」  手を引っ込めたかったけど、どうしてもできなかった。 「美帆……」  甘く名前を呼びながら、護は、指に指を絡めてきた。
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