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「俺さ、美帆の幸せを奪おうとか、そんなことは考えていないんだよ」  背中の後ろでシャツに袖を通す気配がした。  すでに始発が動き出そうという時間だった。 「わかってる」  ぐったりとベッドに横たわったまま私は言った。  まるで子供が、手放した玩具をほかの子が手に取ったのを見て奪い返そうとするみたいに、護はあの店で私に手を伸ばした。ただ、一度飽きた私に、彼がこれ以上執着するはずがない。そんな面倒なことをしなくても、遊び相手に不自由してはいないはず。  そんなことはわかってる。  私に、護の心を繋ぎ止めておくことなどできないことなんて。 「悪いけど」  身繕いを終えると、あくびをかみ殺しながら護は言った。 「俺、午前中に予定が入っててさ。一度帰って着替えなきゃならないから、先に行くよ」  それは私だって同じだった。これから会社に行かなくてはならない。でも今日は、体調を理由に休んでしまおうと思っていた。一睡もせず、夜通し続いた行為のせいで眠気と疲れはピークに達している。とても仕事なんかできる状態ではない。  なにも答えずにいる私に「じゃあ」と告げ、護は部屋を出て行こうとした。  しかし、途中で足を止めた。  鞄から何かを取り出し、筆を走らせる気配がする。 「これ、俺の携帯。メルアドも書いておいたから」  そう言い残して、彼は部屋を出て行った。  護の気配が消えてしばらくして、私はベッドの上で体を起こした。  振り向くと、サイドテーブルに、彼が残した紙切れがあった。  護らしくない、と私は思った。  抱いたあとの女に、求められもしないのに携帯を教えるような彼ではないはず。一度飽きて手放した玩具をもう一度遊んでみたら、思いのほか楽しかったということかもしれない。でも、連絡を待つような素振りは未練たらしく思えて、彼にはして欲しくなかった。  求めても、求めても、けっして届かない。振り向いてさえくれないからこそ護なのだ。だからこそ私は、あれほど身を焦がし、夜通し彼を求め続けた。今も私の心の奥に眠るけっして叶えられることのない想い。その想いこそが、果てのない切なさを煽り、あの目眩く一瞬を呼び起こす。  私はテーブルの紙切れを手に取った。そして内容も見ずにふたつに破った。さらにもう一度、二度と破り続け、小さくなった紙くずを頭の上に放り投げた。それはまるで、ちいさなフラワーシャワーのように、はらはらと私の上に舞い降りてくる。  そして思った。  私は、幸せにならなくてはならない。  あの目眩くような悦びが、いわば不幸せの代償ならば、そんなものに捕らわれて、いまのこのチャンスを逃すことなどあってはならない。  すぐにこのホテルを出よう。急いで部屋に戻るのだ。そして、会社に休みの連絡を入れる前に、陽樹さんに電話を入れよう。体調がすぐれないため今日は休むことにしたと。式も近いけど、大事を取ってのことだから心配ないと。まるで、何事もなかったかのように。  それでうまくいく。  きっとうまくいく。  そう願いながら、私はシーツの乱れたベッドを降りた。
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