125人が本棚に入れています
本棚に追加
1
「どうしたの。憂鬱そうな顔しちゃって」
店の窓越しに、通りを見つめていた私に真央が言った。
テーブルには、飲みかけのアッサムティーが置かれている。紅茶が美味しいと評判のこの店の中でも、一番人気の紅茶だ。
「いまが幸せの絶頂のはずじゃない。もしかして美帆も一人前にマリッジブルー?」
真央は、戯けた口調で言うと、顔をのぞき込んできた。
「ひどいな。一人前にって」
拗ねた顔をして言った。
「だって、あれだけ素敵な婚約者でも、結婚前には憂鬱になるんだなぁって思って」
「べつに憂鬱になんかなってないよ」
「そうかな?だって今日はなんか無口じゃない」
「そんなことないよ。ただちょっと疲れてるだけ。式が近づくにつれていろいろ忙しいんだもん」
「しかたないね。もう来週でしょ」
「うん、いよいよって感じ。ただ、陽樹さんは新店のオープンが重なっていて少しも手が空かないの。私がひとりで準備しているみたいで、それはちょっと不満かも」
「贅沢言わないの」
真央はたしなめる口調で笑った。
「それだけ会社に期待されてるってことでしょ。彼って部長にも気に入られてるし、来期は主任昇格って噂よ。そうなったら同期で一番乗りじゃない」
「うん」
私はちいさく相づちをうった。
江島陽樹は私のフィアンセだ。店舗開発部の先輩である彼とつきあい始めたのは1年半前、半年前にプロポーズされ、一週間後に挙式が迫っている。
穏やかで人当たりがよくルックスも良好。仕事もそつなくこなす彼を巡っては、過去に職場の女の子の間でちょっとした争奪戦があった。そのとき、積極的にアプローチをかける子も多い中で、私はむしろ傍観者だった。そんなある日、私は、彼のサポートに回され、強行日程で新規店舗をひとつ立ち上げることになった。二ヶ月ほどの間、二人三脚で仕事をしたことがきっかけとなって、ふたりの交際は始まった。彼は、それ以前から私のことが気になっていたらしいのだが、積極的に女性を誘うタイプでない彼のこと、あの二ヶ月がなければふたりがつき合うことはなかっただろう。
「優しい人だし、結婚さえしてしまえば大丈夫よ」
真央は私をマリッジブルーと決めつけているようだ。
「そうね」
この話題にはこれ以上触れたくなくて、そんな相づちで会話を打ち切った。
正直、私は自分が分からなかった。陽樹さんのことは愛してる。ただ、式が近づくにつれて、これでいいのだろうかという不安が心の底にわだかまり始めていた。それをひとくちで言えば、真央の言うとおりマリッジブルーなのだろう。けれど私は、このわだかまりにそんな名前をつけただけで終わらせたくはなかった。親友の真央にすら話すことのできない不安と憂鬱。それにけじめをつけない以上、陽樹さんの妻として幸せにはなれないのではないかと思えてならない。
真央とは、その後しばらく街を歩いたあと軽く食事をして別れた。
JRの改札で彼女を見送り、私鉄の駅に向かって歩き出す。
そのときだった。
視線の端を男性の影が横切った。
見覚えのある横顔に、胸の鼓動が跳ねた。
思わず立ち止まり、後ろ姿を目で追う。
長身でスリムな体型にラフに逆立てた癖のある髪。それだけを見れば、この街によくある後ろ姿だ。しかし、私には、それが"彼"であることが間違いなく思えた。
後を追おうか、考えてためらった。
そしてその一瞬の間が、"彼"を雑踏の中に溶け込ませてしまう。
慌てて駆けだしたけれどすでに遅かった。最後に"彼"の姿があった場所にたどり着いた私は、ただ周囲の人混みを見わたすだけだった。
戻ってたんだ、と私は思った。
"彼"の名は美杉護(みすぎまもる)、三年前までつきあった元彼だ。
つきあい始めたのはさらにその一年前。当時の私は今の会社に入社したての22歳、1つ年上の護は、地方で勤めていた会社をやめ、ダンスの勉強をするために上京したばかりの23歳だった。
出会ったのは、大学時代の友人に連れて行かれたダンスクラブだった。連れて行かれたはいいが、ろくに踊ることもできずフロアの片隅に佇んでいた私に、彼が声を掛けてきたのだ。
「踊らないの?」
瞬くストロボに浮かび上がった彼は、きれいに通った鼻筋にアーモンド型の瞳をしていた。
お嬢様育ちの私には、護のすべてが新鮮だった。
ろくなあてもないのに会社を辞め、突然上京してしまう危うさ。夢を語るときの少年のような瞳と、突然見せる投げやりな瞳のアンバランスさ。普段は人の気持ちなんか考えないくせに、気まぐれに見せるびっくりするくらいの優しさ。彼は、それまで私の周囲にいた男たちとは、まったく別の世界の男性だった。
出会った次の週の週末、初めてのデートで抱かれた。私にとっては、信じられないくらいの早さだ。それくらい、そのときにはもう私は彼に夢中だった。
もっとも、彼の側に、私とつきあっているという気持ちがどれだけあったかは疑問だ。いまではそう思う。大学卒業と同時に女子会館を出て、一人暮らしを始めたばかりのOL。世間知らずで、真面目だけれど好奇心は旺盛。引っ込み思案なくせに、いや引っ込み思案だからこそ、一度手に入れたものは簡単に手放そうとしない。そんな私は、きっと、彼にとって都合の良い女だったんだと思う。
護は、突然ふらりとアパートを訪れ、好きなように私を抱いて去っていった。週末に遊びに連れて行ってくれることもあったが、途中で携帯が鳴り、その場で分かれたこともある。ダンスの仲間だという女友だちと出会い、打ち合わせという理由で置き去りにされたことさえあった。ふたりでいる時の私は、いつも心のどこかで彼の気まぐれに怯えていた。どうすれば彼の心を繋ぎ止められるか、そんなことばかり考えていた気がする。
当時の私だって、彼の心が、本当は自分に向いていないことくらい分かっていた。けっきょく傷つくのならば、別れたほうがいいのではないかと悩んでいたことも確かだ。しかし、働き始めたばかりの会社で、私が出会う男たちは、誰をとっても護の前では霞んで見えた。誘われて食事に出かけた人もいる。でもその人とふたりでいても、あの、護に感じる、胸が苦しくなるようなときめきなど欠片も感じることができなかった。
そんな護との関係も、およそ1年が経とうとするころのことだった。
しだいに、彼が部屋を訪れる間隔が長くなり、携帯に掛けても出ない。私は仕事が手につかず、昼間から彼のことばかり考える日々を送っていた。そんなある日、突然彼の携帯が不通になった。『おかけになった電話番号は……』流れるメッセージを聞いて私は途方に暮れた。携帯の会社を変えたのだと思った。だとすれば、すぐに連絡が来るはず。そう思い、数日待ったけれど連絡は来なかった。私は、思いきって、彼の行きつけの店に行ってみることにした。そして、そこで聞かされたのだ。護なら、ダンスの勉強をするといってニューヨークに渡ったと……。
護は、はっきりと期間を告げずに去ったらしいが、短くても数年は戻って来ないだろうとのことだった。それを聞いたとき、私は、呆然としながらもどこかでホッとしていた。もうこれで苦しまなくてすむ。そう思ったからだ。しかし、本当の苦しみはその先に待っていた。護を失った私には、周りのすべてのものが色を失って見えた。笑うこともなく、ときおりどうしようもなく悲しくなる。そんな不安定な時期がそれから数ヶ月続いた。そして、本当に心から笑えるようになるには、そこからさらに1年近くの時間が必要だった。
駅前の雑踏の中、護を見失った私は、しばらくその場所に佇んでいた。
立ち止まったままの私を邪魔そうによけて、遊び着に身を包んだ男女が通り過ぎていく。
やがて私は歩き出した。
護の後ろ姿を追うように、私鉄の駅とは反対の方向に向って。
最初のコメントを投稿しよう!