シー・ラブズ・ユー? ⑽

1/1
前へ
/179ページ
次へ

シー・ラブズ・ユー? ⑽

 俺は彩音を呼び止めようと駆け出した。その直後、俺の手首を何者かが捉え、強い力で引き戻した。 「彩音さんをつけまわすのはやめろ」  振り返ると、先ほどステージで演奏していたバンドマンの一人が立っていた。 「つけまわしてなどいない。むしろガードしてくれと頼まれたんだ」 「なんだって?適当なことを言うな」  バンドマンは手首をつかむ指に力を込めた。思い込みの激しい奴だ、と俺は思った。 「悪いが、離してくれないか。手首が折れそうだ」 「大袈裟なことを言うな。彩音さんたちが店を離れるまで、このままでいろ」  俺は音をあげた。どうやら話し合いで解決することは諦めたほうがよさそうだ。 「暴力はやめてくれ、でないと……」  俺は手首の「粒子」に働きかけた。少々、荒っぽい方法だがやむを得ない。 「うわっ!なんだっ」  バンドマンが俺の手首を離した。解き放たれた腕がだらりと下がり、ひじの先から振り子のようにゆらゆらと揺れた。一時的に腕の骨を解体したのだ。 「お……折っちまったのか?」  バンドマンがおろおろと不安げに俺を見た。それはそうだろう。強く握ったぐらいでいちいち骨が折れていては生きてゆけない。 「心配ない。すぐに治る」  あっけにとられているバンドマンをその場に残し、俺は会場を飛び出した。 廊下にもロビーにもとっくに二人の姿はなかった。が、俺は悲観してはいなかった。二人が辿った道筋が目に見えない軌跡となって残っていたからだ。  ゾンビは嗅覚が鋭い。よってごく短い間であれば、臭跡をたどって後を追う事ができるのだ。  俺の嗅覚には、先ほどとらえた二種類の臭いが残っていた。同じ臭いが店の中から外へと、細い二本の糸のように続いていた。俺はライブハウスを飛び出すと、臭跡を追った。二本の糸は建物を出てすぐ右手に折れ、雑居ビルの連なる通りをまっすぐ伸びていた。  この道筋なら、走ればいずれ追いつくな。  俺は雑踏をくぐりながら二本の糸を追った。排気ガスや酔っぱらいの臭いなど、幾層にも折り重なった夜の臭いが何度となく俺の足を止めそうになった。何度か角を曲がったところで、俺の鼻は一軒の雑居ビルに糸が吸い込まれていることを確認した。 「エレベーターに乗ったな。おそらくまた地下だ」  俺はテナントの表示を見た。先ほどバラバラになった腕の骨はいつの間にか修復されていた。ひととおり入居している店名に目を走らせると、俺は饐えた臭いのするケージに乗り込んだ。確かめるまでもない。バーや小料理屋ばかりのテナントの中で、二人が行きそうな店は一つしかない。地下のクラブだ。  エレベーターを降りると、俺は突き当りの黒いドアに向かって足を進めた。 「アッドナイン」と彫り込まれたドアを押し開けると、下腹に響くような大音量が耳を聾した。店内は暗く、どこが受付かもわからなかったが、俺は構わず奥へと進んだ。 「いらっしゃいませ。お客様、会員証を」  店員が近づいてきたが、俺は構わず闇の中を進んで行った。エレベーターから続いている糸が、フロアの中央で体を揺らしている二つの影へと吸い込まれていたからだ。
/179ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加