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ひんやりする場所にて
「えっと、ごめん。飲み物、買って良い?」
そういった春野琴美は、制服のスカートを揺らしながら、真っ赤な鳥居の横にある自動販売機に向かった。神社の周辺を取り囲む古い木々たちの葉が、真夏の日射をやんわりと遮り、木漏れ日を作っている。
琴美の後姿をしばらく見つめていた河野貴樹は、キキキと鳴きながら不器用に羽をばたつかすセミに視線を奪われる。彼の視界に真っ赤な鳥居が重なった。
「神社、よって行くか? 涼しいんだよ、この場所は」
「うん、今日はあっついね。少し休もう」
振り返った琴美の瞳が、ドキリとするほど淡く澄んでいる。透明なものほど、言葉から遠ざかっていく。忙しなく夏を歌うセミの声が、ようやく貴樹の感情に触れたころには、頬を伝う汗が、ポトリと地面に落ちていた。
琴美と一緒に帰るようになったのはいつからだろう。高校二年に進級したときからだろうか。別に付き合っているとか、そういうわけじゃない。むしろ感情が薄い、貴樹は自分でもそう思っている。いや、決して感情が無いわけではない。ただ彼は感情を強制されるのが嫌いなのだ。誰かを好きになるとか、愛するとか、そういった感情は強制されるものではなく、自分で作るものでもなく、ただ自然とそこにあるもの。貴樹にとって、琴美は感情を強制しない数少ない大切な存在だった。
灯籠が立ち並ぶ古びた石段を登ると、目の前に小さな拝殿が見えてくる。貴樹がこの場所に誰かを連れてきたのは今日が初めてだ。
「ほんとだ。ひんやりするねぇ。なんでだろう」
琴美は手水舎に駆けよると、ひしゃくで水をすくい、それを左手にゆっくりとかけ流していく。きらきら反射する水の玉が、小さな音を立てて地面にはぜていった。
「冷たっ」
木陰に包まれた境内は静かだ。小高いこの場所をふき抜けていく風に、先ほどの熱気は感じられなかった。
「あそこのベンチに座ろう」
貴樹はそういうと、神木の横に置かれた小さな木製のベンチに歩みを進める。玉砂利が敷き詰められた神社の境内に、二人の靴音がゆっくり響いていく。
「神木に直接触れることができる神社って珍しいんだ」
しめ縄が巻かれた神木の太い幹は、力強く大地に根を張り、周囲のどの木々よりも高く、大きな枝葉の緑を風に揺らしていた。
「貴樹って、そういうの詳しいよね。飲む?」
ベンチに腰かけた琴美は、飲みかけのペットボトルを貴樹に差し出す。少しだけ照れ笑いを浮かべた彼は小さく首を振ると、彼女の隣に座り夏空を見上げた。
琴美はそのまま、ペットボトルの残りを一気に飲み干すと、貴樹がそうするように視線を上に向ける。青と白のコントラストが強い。だから夏空は他の季節よりもその境界線が明瞭だ。
静かな境内に携帯端末の着信音が鳴り響き、慌てて鞄の中身を覗き込んだ美琴は、真っ黒な端末を手に取る。ベンチから立ち上がり、貴樹から少し離れたところで通話相手と会話を始めた。端末を耳に押し当てながら、何度か軽くうなずいていた彼女は、手短に話をすますと貴樹を振り向く。
「ごめん、急いで帰らないと。弟の子守だよ。お母さん、急用だって」
「弟さん、まだ小さいんだっけ?」
「来月で四歳。まあ、可愛い盛りなんだけどね。じゃ、また……明日ね」
「うん、また明日に。気をつけて」
彼女は端末を鞄の中にしまうと、貴樹に軽く手を振り、空になったペットボトルを握りしめながら境内を後にした。緩やかに吹き抜ける風は相変わらず涼しく、そして優しく空間を包む。そう、彼女が現れるとき、貴樹は場の空気で分かる。
「ねぇ、君の彼女? 素敵な子だね」
「ちがうよ。大切な友人だ」
記憶は人の中に宿るというよりは、むしろ景色の側にある。そして毎年、夏になると、それは記憶ではなく現実の風景として彼の前に現れる。
「君がここに誰かを連れてきたの、初めてかな……。ねぇ、貴樹。そろそろ、私はここにいない方が良いと思うの」
「由香里……。そんなこと……。君に会えない夏は、きっと夏じゃない」
真っ白なワンピースに身を包んだ小柄な少女は、貴樹の隣に腰を下ろす。
「貴樹はいくつになった?」
「高校三年。十八だよ」
「私はあの時のまま……。来年は君も大学生だよ? さすがに中学生とじゃ、まずいんじゃない?」
「三年……か」
由香里と呼ばれた少女はベンチから立ち上がると、少しだけ歩みを進めて貴樹を振り返る。ショートボブの後ろ髪が、境内を吹き抜ける風に揺れ、同時に蝉の声が少しだけ近くなった。
「ねぇ、なんで毎年ここに来ちゃうんだろうね。自分でもよく分からないの」
「ほんとに何も覚えていないのか? 何か向こう側に行けない理由とか……」
「君のこと以外、覚えていることはほとんどないよ。思い出すって、どうやるんだろう」
そう言って由香里は笑った。
「何か大切な事、俺も忘れているのかもしれない……」
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