一歩ずつ。生きるということ

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一歩ずつ。生きるということ

 天崎由香里(あまさきゆかり)との出会いは中学二年の夏だ。田堵江波神社の赤い鳥居の横で、自動販売機からペットボトルを取り出そうとしたとき、河野貴樹(かわのたかき)に声をかけてきたのが彼女だった。  彼が由香里と話をしたのは、その時が初めてだ。同じクラスにもかかわらず、互いに人づきあいが苦手な二人は、共通の友人もおらず、ほとんど接点がなかった。 「あの……。写真、撮ってもいい?」  由香里の肩から斜めにかけられた茶色のストラップ。両手に抱えていたのは真鍮製のカメラだ。数千万画素のデジタルカメラが当たり前の時代に、銀色に光る小さなフィルムカメラを手にした由香里は、緊張した面持ちでもう一度「写真を……」と言って、左手をカメラのレンズに沿えた。 「あ、別に良いけど……。俺を撮るの?」 「鳥居の方を向いて、ペットボトルをこう……」  貴樹は田堵江波神社の鳥居に視線を向けると、買ったばかりのペットボトルのふたを開け、口元に運んだ。程なくしてカッシャンというアナログの音がセミの歌声に交じる。 「こんな写真でいいのか?」 「うん。夏が青い」 「夏が青い?」  由香里はカメラ上部のレバーを親指で操作しながらフィルムを巻き上げると、再度レンズを貴樹に向けた。機械式のフォーカルプレーンシャッターと、真横に走行する布幕がフィルムに充てる光の量を調整する。それは、一瞬で行われる風景の切り取り作業。 ――カシャン。  貴樹と最も親しかった友人、佐伯雅也(さえきたつや)の実家がカメラ屋だったこともあり、神社での出会い以来、由香里を含め、三人で地元の街中を散策しながら写真を撮るようになった。雅也の家には、フィルム写真を現像するための業務用暗室があり、由香里が撮影した写真はその日のうちに雅也の父親が現像してくれた。  赤い光の中で、現像液に満たされた銀色のバレットに揺れる印画紙。L版のキャンバスに、ゆっくりと街景色が浮かび上がっていくその光景は、貴樹にとって日常に色をもたらす大切な時間だった。  夏も終わりかけた9月中旬、季節の変わり目のせいか雅也は体調を崩し学校を休んでいた。だから、その日、学校帰りの通学路は貴樹と由香里の二人だけだった。 「自分で自分の影を踏んでみると良いことがあるかもしれない」  由香里は突然そんなことを言いだすと、アスファルトに延びる自分の影を追いかけるように飛び跳ねていく。そんな小柄な彼女の背中に、貴樹は「ほんとかよ」と声をかける。 「やってみなよ」  自分の影を踏む。踏み出した足がまた新しく影をつくって、その影を踏み直すためにまた一歩。その繰り返し。前に進むって、こういうことなのかもしれない。 「きゃっ」 「ご、ごめん。ってか、立ち止まるなよ」  足元に集中していた貴樹は、目の前で立ち止まった由香里に気づかず、彼女の背中にぶつかってしまった。由香里はゆっくり振り向くと、その澄んだ瞳を貴樹に向けたまま、両手を彼の背に回した。 「ごめん。でも……」  一歩一歩、少しずつでも前に進む。その繰り返しこそが生きるということの本質。でも、立ち止まってもいい。由香里が側にいてくれるのなら、どんなに悪い時でも全て笑い飛ばせるかもしれない。彼女を抱きしめながら貴樹はそう思った。
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