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私は、随分と長い間、退屈した生活を送っていた。
それは、まさしく地の塩ともいえる人生だった。
そして、人生の半ばを過ぎる頃になって思うのだ。
ああ、自分は、何てつまらない人間なのだろうか、と。
その日も介護施設での夜勤を終えた私は、明るい光の下を帰路へとつこうとしていた。
そして、疲れた脳で考えるのだ。
これから、何年生きても何も面白いことなんてありはしないのだ、と。
自分は、生きていても、死んでしまっても、同じ。
この世界には、大差ない存在だった。
なら、いっそ、死んだ方が、この世界のためになるのではないか。
そう、思った時、不意に目の前が暗くなった。
そこは、いろいろな花が咲き誇る庭園の中だった。
いい香りが、辺り一面に漂っていた。
バラの香り?
甘い香りに誘われて、私は、奥へと歩いていった。
空には、何もなく、ただ白い空間が光を発しているようだった。
ただ地上を覆いつくす花たちだけが目の前に広がっていた。
私は、足元の花を踏みつけないようにしたかった。
何故なら、それもまた、意味のあるものだったから。
すると、足元の花が消え、歩道が現れた。
私は、その赤い煉瓦の歩道を歩き続けた。
歩道は、私を小さなテーブルを囲んだイスへと導いていった。
まるで、アリスの招かれた気違いお茶会のようだと私は、思った。
「あなたがそう思うなら、それは、あながち間違いではないのでしょう」
声の方を見ると一人の少年がテーブルの前のイスに腰掛けて白い陶器のカップへ、お茶をそそいでいた。
私は、少年に確かに見覚えがあった。
だが、彼が、誰なのか、わからなかった。
戸惑う私に少年は、人懐っこく笑いかけた。
「どうか、テーブルについてください」
私は、怪しみながらもすすめれるままに少年の前に置かれた白いイスに腰を下ろした。
少年は、私にお茶をすすめた。
「今日は、いい日だ」
黒猫が一匹、少年の膝の上に飛び乗った。
「会いたいと思っていた人に会えたから?」
猫は、少年にきいた。
私は、思わずお茶のカップを落とした。
だが、お茶は、こぼれることなくテーブルの上にあったし、カップも傷一つなく存在していた。
猫は、にやり、と笑った。
「お気遣いなく。ここは、あなたの存在する世界とは、少し違う世界なので」
「違う世界?」
私は、猫と少年を見つめた。
少年は、少し困ったような顔をして猫を撫でた。
「正確には、同じ世界です。ただ、いつも、あなたがいた世界とは、違うのですが」
少年は、私に向かって微笑んだ。
「ここは、あったかもしれない世界なのです」
「あったかもしれない世界?」
私がきくと、少年は、言った。
「そうです。ここは、もしかしたら存在したかもしれない世界」
「それって」
私は、訝しげにきいた。
「もしかしたら、存在していない世界ってこと?」
「まさしく、そうです」
少年は、満面の笑みを浮かべて言った。
「ここは、存在したかもしれないけど、存在しなかった世界です。そして、僕は、存在したかもしれないけど、存在しなかった子供であり、この猫は、存在したかもしれないけど、存在しなかった猫です」
「どういうこと?」
私は、廻りを見渡した。
私は、なぜ、いつから、ここにいるのだろうか。
私には、どうやってここにきたのかさえ、思い出せなかった。
私は、心の中で確認していた。
私は、水田 聖。
年齢は、今年で48歳。
性別、女。
結婚して17年になる夫がいる。
勤めている介護施設は、ソレイユで、毎日、老人たちの介護をしている労働者だ。
少年は、私の心の声が聞こえるかのように頷いていた。
「知っています」
「何を」
「あなたの全てを」
私は、少年を、見た。
お前が、私の何を知っている。
少年は、眉をひそめた。
「だから、何でもあなたのことを知っています」
少年は、自分のカップを手にとってお茶を一口、すすった。
「あなたが何を得て、何を失ってきたか、そして」
少年は、カップ越しに私を見つめた。
「何を得ることが出来なかったのかも」
「何を言って」
「僕は」
少年は、猫を撫でながら言った。
「僕は、あなたが10年前に産む筈だった子供です」
私は、言葉を失った。
確かに、私は、10年前に不妊治療を受けていた。
毎日、産まれてくるだろう子供のことを夢見ながら日常を過ごしていた。
だが、子供は、産まれることは、なかった。
体外受精で造られた私と夫の受精卵は、私の体内に根づくことなく消え失せた。
「悪い冗談だな」
私は、言った。
もう、そういうことを笑って話せるような年には、なっていた。
だけど、冗談には、出来なかった。
それは、私にとっては、重い現実だったから。
少年は、言った。
「言ったでしょう。ここは、存在したかもしれないけど、存在しなかった世界だって」
「そんなこと」
そんなバカなことが、在るわけがない。
私は、少年の外見をトレースしていた。
ああ。
そんなことが、在るわけないのに。
なんて、私たちにそっくりなのだろうか。
この子は。
不意に、私は、この突拍子もない話を信じてしまった。
何故なら、ここは、存在しなかった世界なのだから。
私は、手を伸ばして少年の頬にそっと触れた。
柔らかで、温かい。
もしかしたら、存在していたかもしれない我が子に、こうして会えた。
確かに、今日は、いい日なのだろう。
だが。
私は、少年に触れた手を強く握りしめてきいた。
「ここは、死後の世界?」
私は、死んでしまったのかもしれない。
少年は、驚いた表情を浮かべてから、笑いだした。
「違います。僕らは、確かに存在が不確かな存在ではあるけれど、実在します」
少年は、私に微笑みかけた。
「僕たちは、誰も死んだりしてはいません。生きています」
「じゃあ、なんで、今更、こんな話を私にしている?」
私の問いに、少年は、応えた。
「あなたにお知らせしなくては、いけないことができたからです」
「私に知らせなくてはいけないこと?」
少年は、腕の中の猫を撫でながら誰にともなく言った。
「あなたの実在のレベルが変化することになりました。あなたは、この度、人のレベルを超越したものになることになったんです」
「何のことか、わからない」
私は、呟いた。
猫が鳴いた。
「要するに、あんたは、もう、人じゃなくなったんだよ」
「そうですね」
少年は、私に言った。
「あなたは、世界創造主保護機構における創造主の条件をクリアしてしまいました。そのため、あなたは、創造主として認定されました」
私は、再び、言葉を失った。
私が、創造主?
「信じられないかもしれませんが、あなたは、もう、すでに、人の世界に籍のない存在となっています」
「私が人でないなら、いったい何だっていうんだよ」
「あなたは」
少年が、厳かに告げた。
「創造主、つまり、神です」
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