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渇いた声で笑って雲のない空を見上げる。すぐ側で電車が通りすぎる轟音に足を止め、一階がアパートなボロ臭い廃ビルの入り口、帰ろうという彼女を呼び止め、駆け寄った。
「キーラさん、忘れ物はない? 傘……!」
雨なんて降らないだろうに、下手くそだ。とにかく、ともかく、独りになりたくない。こんな時ほど切なくて。言葉が出て来ない。
「私も忘れ物……したかも。傘は要らない」
玄関ホール、軽やかに先を歩くキーラが、ポニーテールを揺らしながらふと振り返る。
何か目が合っただけで悟られた気がして、ナーバスさを胸に鬱いで閉じ込めた千尋だ。
高架下にある、背の低いトンネルの前で、傾いた日射しを背中に受け、空の下に佇み、ドラマチックな逆光の中で、微笑んだ彼女。日焼けした肌の産毛に水色のベールを纏う。ヘーゼルの瞳が煌めき、ふと起こった風に、金髪を靡かせ、眩しいほどキーラは綺麗だ。
千尋は見惚れ、強い陽射しとは無関係に、くらくらと目眩がし、渋々蝙蝠傘を開いた。妖精の彼女は太陽の下、元気一杯だけれど、彼は魔物だ。例外なく陽の光が苦手だから。
キーラの淡い色の唇が薄く開いて、何か、千尋に話し掛けたが電車の走る大きな音と、立ち眩みに伴う――高音の耳鳴りのせいで、彼女の微かな声なら、聞き取れなかったし、日差しに視界を奪われていて、立ち止まり、唇の動きを読み取ることも、出来なかった。
目を閉じていたら、自分より高い体温が、肌に触れる感触もいつもより鋭敏に感じる。俯いた視界に、インソールの紅が飛び込み、グラディエーター・サンダルの華奢な爪先。革のベルトがセクシーに巻き付いた足首や、光沢のある緑青のペディキュアが目を奪う。気がついたら彼女の腕の中に居て、驚いた。
「え──っ」
電車があっという間に頭上を通り過ぎる。開けっ放しの厳めしい硝子扉が閉まる音と、室内で付けっ放しの野球中継のアナウンス。喧騒が耳にけたたましく舞い戻って来ると、今、自分の置かれている状況を把握し始め、ようやっと千尋は、ぼんやりと顔を上げた。
頬を抱く手のひら。彼女の唇が唇に触れ、躊躇いがちに、目を閉じ、されるがままで、首の後ろに、ほっそりした腕が回ると同時、背中を緩やかに撫で、手のひらで頭を支え、対して、弱々しく、細い身体を抱き止める。彼は成す術もなく、恋人に心を預けていた。
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