58人が本棚に入れています
本棚に追加
/397ページ
一目惚れをするに時間はかからない
「まだ夏だねえ……」「いいお天気だもの」
「どこかで涼みたい」「ほんと暑いね……」
桜介はブラウンの革ジャケットを脱いで、手に持ち、Tシャツの胸をぱたぱた扇いだ。田舎で山が近いため朝方は冷え込むのだが、太陽が上れば、茹だるような暑さにもなる。
「本当だねぇ、今日も暑くなりそうだなぁ」
重雄もスカジャンを脱いで縦に細く畳み、手に持つと、Yシャツの袖口を捲りながら、窓から降り注ぐ黄色い陽射しに目を細めた。
千尋は肩に掛けたトートバックの中へと、小さく丸めたフリースジャケットを仕舞い、窓の向こうに見える真っ青な空を仰ぎ見た。
「あの大嵐が嘘のような快晴だな。眩しい」
「嵐の後は、決まって晴れ上がるものだよ」
トレーナーとナイロンジャケットを脱ぎ、暑がりなキーラも涼しげな半袖姿になった。ボーイフレンドジーンズも半端丈で涼やか。黄色いスニーカーの足取りも軽やかである。
「荷物が邪魔だ。預けるところはないかな。どこかにコインロッカーがなかったっけ?」
薄着になると、余計に手荷物など増えた。フロア案内を一緒に見た重雄に声をかける。 後ろを振り返って、千尋は首を捻ってから、気を遣ったのか、無難な口を聞き、微笑む。
「どこかにあったような気がしますけれど。エレベーターホールに案内があるはずです」
「とりあえず三階から移ろうよ。人が多い」
やれやれと人混みを抜け、疲れた四人は、エレベータホールにようやっと辿り着いた。桜介は人に揉まれ、ヘロヘロになっていた。観葉植物の影で、白い壁に凭れて座り込む。
「あーあ……猫に変身すりゃよかった……」
その桜介のぼやきに千尋がすぐ反応した。
「嫌だよ、運べって? ただでさえ暑いし、あったかい湯湯婆みたいな猫を抱っこして、人混みを歩けない。……怒られちゃうよ!」
キーラは想像して思わずくすくす笑った。重雄の冷静なツッコミもなキツく手厳しい。
「今さらでは!?」「どういう意味だよ?」
重雄をチラチラと見てはムッとした顔で、重ねてへばっている桜介を叱咤した千尋だ。
「大体な、お前の荷物は、誰が持つんだよ。しっかりしてくれよな。ほら、立ちなさい」
桜介は登山用のリュックサックに結んだ、白いヘルメットを手持ち無沙汰に弄り回し、屈んだまま千尋を淡い瞳でじっと見上げた。
「ちょっと……休憩だ。過酷すぎるよ……。あのさ、おれ、これでも、夏風邪を引いて、高い熱を出してさ、病み上がりな訳なんだ。ちょっとは気遣って欲しいよ……。頼む!」
大荷物を文句も言わずに担いで来たのだ。バカしか引かない風邪が病み上がりの体で。(キーラに癒して貰い、大したことはない)桜介の汗に濡れた柔らかい坊主頭を撫でた。
「分かったよ。代わるよ。暫く休憩しよう」
「ソファーかどこかで、休憩しましょうよ」
千尋やキーラの優しい囁き声を聞くなり、ほっと胸を撫で下ろし、傍らに立っている、重雄の足元にこてんと頭を預け、頷く桜介。
その頭を撫でながら、足元を覗き込んで、やれやれと重たいトートバックを下ろした。目の前にある壁の案内板を覗き込んだ千尋。
「うん、コインロッカーは二階みたいだな」
声の近さと壁に手をつく千尋の背の高さ、距離感にドキドキしたキーラは恋をしている。恋人になってからも。ふとした瞬間に――。
最初のコメントを投稿しよう!