音弥と勇星

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 午後五時。  プレーヤーから「旅人の夕べの祈り」が静かに流れている。  今は子供達がいなくなった幼稚園の二階にある、見谷牧師の事務室。俺はソファに腰掛け、マグカップの中のコーヒーを少しだけ口に含んだ。 「なるほど。確かに道介は動物の絵を描くことが多いし、移動動物園が来た時は普段よりずっと楽しそうにしていたかもしれない」  俺の話を聞き終えた見谷牧師が、白髪混じりの髪を手で撫でながらニコリと笑った。 「音弥も知っている通り、この幼稚園も昔はウサギを飼っていたんだよ。ウサギ幼稚園なんて呼ばれてたくらいだからね」  俺はカップをテーブルに置いて身を乗り出した。 「一、二羽くらいなら近所の小学校から分けてもらえるかもしれませんし、俺が買って来てもいいです。今はウサギもペットとして人気だから……」 「良い案だが、動物を飼うとなるとアレルギーの子がいないかの調査も必要だよ。それから、子供達にはウサギの扱い方も勉強させないとならない。ウサギは繊細な生き物だから、子供達のエネルギーに適応できるまで時間もかかるだろう」 「そ、そうか。ただ用意すれば済むって話でもないですね……」 「道介のことを気にかけてくれてありがとう、音弥。だけど急がずに、まずは動物の図鑑や絵本、ビデオなどから揃えてみたらどうかな?」  牧師の目は優しく、言葉はいつだって温かい。  俺は頬を熱くさせて頷いた。 「じゃあ、次の休みにでも本屋に行ってきます。俺の感覚で選んじゃっても大丈夫ですか?」 「ああ、お願いするよ。ただしお金は大丈夫。頂いた献金から支払うとしよう」 「でも、今月は教会のオルガンを新しくする予定なんじゃないですか? 音が出ないキーもあるみたいだし……」 「オルガンは来月に回せば問題ないよ。一つくらい音が出なくたって、バレないバレない」 「……それに、つばめ組担当の高下さんが産休に入られたでしょ。新しい先生も募集しないといけないから、他にも優先すべきことがあるんじゃ……」  園児の数は少ないが、職員はもっと少ないのだ。基本的に一クラス一人で見ているから、教諭は見谷牧師、海斗、そして先週産休に入った高下さんを含めて三人。俺はアルバイトだからこの三人と同じようにフルで働くことができず、高下さんがいなくなってどうしたら良いかと昨日も皆で話していたところだった。 「新しい先生が来てくれるのは大歓迎だけど、うちの子達は年齢関係なく遊んでいるからね。しばらくの間は音弥にも手伝ってもらって、音弥がいない時は私か海斗が二クラス見ることにしよう。なに、二クラス合わせても大した人数にはならないんだから大丈夫だよ。絵本を読んで歌を歌って、おやつを出すだけだ」  そう言って笑う見谷牧師は、本当に明るくて優しくて、初めて会った時から何も変わっていない。今でも彼は、俺が世界で一番信頼している大人だった。 「分かりました。それじゃあ──」  任せて下さい。そう言おうとした時、下で大きな物音がした。何かが豪快に倒れるような音だ。俺は慌てて立ち上がり、見谷牧師と一緒に部屋を出て階段を駆け降りた。
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