秋の遠足と勇星の楽譜

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 その夜──  夕飯と風呂を済ませてテレビを見ていたら、いつの間にか床に転がって眠ってしまっていたらしい。一日歩いてよほど疲れていたんだろう。 「……勇星、まだ起きてたのか」  リビングの明かりは消されていたけれど、テーブルのスタンドライトが灯っている。その明かりの下でテーブルに向き合った勇星は、何やら書き物をしているみたいだ。 「ああ、もう少ししたら寝る」  ペンを持つ手は忙しなく動いていた。時折スマホで何かを確認し、また再びノートらしきものにペンを走らせる勇星。旅行中に言っていた「作曲」の作業だろうか。 「………」  明かりに照らされたその横顔は真剣そのもので、とても邪魔ができる雰囲気ではない。手を伸ばして触れたかったけれど、次の瞬間にはもうそんなことどうでも良くなるくらいに勇星の鋭い目は綺麗だった。  気を散らせないように再び床に転がり、勇星が作る曲について考える。  あんなに美しいメロディを作った男なのだ。一度聴いただけで、十五歳という思春期の只中にいた俺の記憶に入り込んで片時も離れなかった曲。勝手に歌詞まで作って歌っていた曲。  きっと、勇星が作る他の曲も素晴らしいものに違いない。聴いた人全ての心を魅了するに違いない。 「………」  考えていたら再び眠っていたらしい。次に目が覚めた時、勇星もテーブルに突っ伏して眠っていた。明かりは点いたまま、ノートも開いたままだ。仕方なくその体を横にしてやろうと思い、起き上がる。  テーブルの上に開かれたノート。書きかけの楽譜。俺には難しくて読めないけれど、まるで続きを待ち詫びるかのように音符達が踊っている。  勝手に見たら悪いかなと思ったが、どうせ見ても俺には分からない。何となくノートを手に取り、他のページを開いてみた。古い五線譜のノートは勇星が愛用しているものなのだろう、所々黄変していて、その歴史を感じさせる。  一番始めのページには『Promessa』。イタリア語だろうか、綴りから察するに意味は「約束」だろう。六ページにも及ぶその楽譜を捲っていくと、次に『fade』、『speranza』と続き、それから、『Genesi』のページになった。 「あ、……」  あの夜、星空の海で歌った曲だ。Genesi──創世。神が作った天地と自然の素晴らしさを讃えた曲。難しくて読めはしないけれど、五線譜を目で追っているとあの流れるような美しさと勇ましさが頭の中で次々に再現される。  だけどそれは、途中で終わっていた。素人目にも分かるほど中途半端なところで、唐突に、ぷっつりと切れていた。  そして余白に書かれていた文字を目にした瞬間、俺の心臓が音を立てて高鳴った。 『INCOMPETENZA!!』──。勇星の字だろう。筆圧も強く、感情に任せて書きなぐったように見える。決して良い意味ではないと一目で分かった。 「んん……、何だよ音弥くん、まだ起きてたのか……?」 「っ……ご、ごめん。勇星、寝るならちゃんとソファで横になった方がいいよ」  テーブルから顔を上げた勇星が、「そうする」と呟いてノートに手を伸ばし、それを閉じた。咄嗟にテーブルの上へ置いたから、俺が見たことには気付いていない様子だ。 「すげえ眠い。音弥、抱っこさして」 「布団も買いに行かないとな。ソファならまだましだけど、ラグの上だと体痛いだろ」 「いいよ別に、俺はどこででも寝れるし……」  枕に使っている大きなクッションに頭を乗せ、勇星が俺を後ろから抱きしめる。まだ心臓が早鐘を打っていた。 「………」  すぐにいびきをかき始めた勇星に気付かれないよう、そっと自分のスマホを開く。 「………」 『INCOMPETENZA』──それは、イタリア語で「無能」を意味していた。
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