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『いよいよ明日は秋の運動会。今日もみんなでダンスやかけっこの練習をしたね。さすが、押川幼稚園の子供たちはいつでも元気いっぱい!』
十月五日、土曜日。
「勇星。お弁当持った? タオルと水筒は?」
「持ったってよ。お母さんか君は」
天気は良好、素晴らしく青い秋晴れの空。いよいよ今日は、押川小学校の校庭を借りての運動会だ。
「ああ、楽しみだけど緊張する……」
「転んで怪我するなよ、音弥くん」
「勇星もな」
「司会進行、楽しみにしてるぞ」
「プレッシャー……」
まだ開会式まで一時間以上あるのに、気の早い父兄達が既にそれぞれ席取りのシートを敷いていた。小学校の校庭は二十人の園児が走り回っても有り余るほど広くて、その分、来客の人達もゆったりと見学ができる。
『押川幼稚園 運動会 みんなで元気にがんばろう!』。スローガンが書かれた大きなポスターは、今は押川小学校に通っている一年生、つまり卒園生の生徒達が作ってくれたものだった。
「主よ、今日という日を感謝致します。どうか子供達をあなたが守り、無事にこの日を終えられるよう私達をお導き下さい」
見谷牧師の朝の祈りが終わる頃、校門から園児達がやってきた。皆、広い校庭と大きな校舎、それからウサギやアヒルがいる飼育小屋を見てはしゃいでいる。
「よっし、俺も頑張るぞ。準備体操のお手本だからな」
海斗が両腕をあげて空を仰いだ。スピーカーから賑やかな行進曲が流れれば、いよいよ始まったという気持ちになってくる。
「さ、最後にトイレ行ってきます」
職員用通路を通ってトイレに駆け込み手を洗い、ついでに顔を洗う。用を足す気などなかった。……手の震えは単純に、緊張によるものだ。
「大丈夫か」
見ればトイレの入口に勇星が立っていた。
「う、うん。今年初めて司会任されたから、頑張らないと。声、裏返っても笑うなよ」
「体の力抜いて、気楽にやれ」
「簡単に言いますがね……」
何しろ大勢の父兄や町の皆がいる前でマイクを使って喋るというのは、俺にとって初めてのことなのだ。プログラムを読むだけの簡単な仕事だけれど、間違えたりどもったりしてしまったらと考えると、どうしても緊張してしまう。
勇星が俺の両手を握り、少しだけ身を屈める。
「音弥くんの声がちゃんと出ますように」
そして、喉にキスをされた。
「………」
「俺がついてる。チビ共に負けないくらい元気にやってやれ」
「あ、ありがとう……」
緊張とは別の熱さに全身が包まれ、思わず唇を噛みしめる。勇星が笑ってトイレを出て行った後、俺はしばし喉に指をあてて目を閉じ、祈った。
『INCOMPETENZA』──あの言葉を書いた勇星の気持ちは、まだ俺には解読できていない。だけど決して勇星は無能なんかじゃない。
いつだって俺を、そして子供達を、勇星は言葉で、キスで、そしてあの指先で勇気付けてくれているのだから。
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