記念日と勇星の誕生日

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「そういうこと」をする目的で利用するホテルがあるのは、当然俺も知っている。たまたま入ったそのホテルのフロントには「従業員募集」と「フリータイムは女子会にも最適!」という張り紙があった。  意外だったけれど、勇星もこういう場所を利用するのは初めてとのことだった。 「そう言えば、イタリアにはラブホテルってのが無かったな」  それ以上のことは聞きたくなくて「へえ」と流したけれど、やっぱり──ほんの少し、嫉妬はしてしまう。出会う前のことなんて気にしても仕方がないのに。 「うお、広いな」  他の階層と比べて五階の部屋だけ料金が高かったのは、恐らくこのせいだ。勇星が選んだ504号室は、俺のアパートなんて比較にならないほどに広くて綺麗だった。  大きなベッド、大きなソファ、大きなテレビではカラオケもゲームもできる。脱衣所も浴室も広くてジャグジー付き、飯も頼めば運んできてくれるらしい。世の中凄いサービスがあったものだ。確かに、女子会には丁度良いかもしれない。  用途や豪華さは全然違うけれど……何だか、夏の旅行で泊まったホテルを見た時と同じテンションになってくる。 「わあぁ!」  勢いに任せてキングサイズのベッドにダイブすると、勇星が「ガキだ」と俺を笑った。 「めちゃくちゃ気持ちいい!」  両手両足をうんと伸ばして、ベッドの上で泳ぐように動かす。勇星がエアコンの調節をしてくれて、それから、脱いだ上着を俺の分もハンガーにかけてくれた。 「泊まりで入ったし、時間はたっぷりあるからな。存分にはしゃいでいいぞ」 「………」  ベッドの上で飛び跳ねたりカラオケやゲームをしたり、意味なく転げ回ったりしたかった。自然に顔が笑ってしまう。今の俺は極限まで浮かれていた。 「そうだ。勇星に貰った音叉、落とさないように置いとこう」  ポケットから取り出したそれをテーブルに置き、忘れないように家の鍵や財布も一緒に並べておく。 「音弥くん」  勇星がベッドに腰掛け、俺の手を取った。 「勇星、誕生日おめでとう」  それから照れ臭そうに笑って、もう片方の手で俺の前髪をかき分ける。身を倒した勇星が額にキスをして、……俺達は視線を合わせ、笑った。 「自分から言ってくれて嬉しかった」 「……待たせてごめん。勇星が我慢してるの知ってたけど、……」 「まあ、この期間もちょくちょく抜き合いはしてたからな。音弥くんのこと大事にしてえし、マジで後悔させたくねえからさ」 「しないって、そんなの」  間髪入れずに俺は答えた。 「俺の性格知ってれば、軽い気持ちで言ったことじゃないってこと、分かるだろ」 「音弥くん真面目だもんな」 「そう言われると、どう反応したらいいか……」  二人でベッドに横になって抱き合い、間近に瞳を合わせながら一つずつ告白する。 「始めは単なる勢いで音弥くんに手出したけど、後日ちゃんと反省したんだぞ。『こんな頑張り屋で真面目な男の子に何てことしちまったんだ』ってさ」 「……そんな風には見えなかったけど?」 「俺は弱さを表面に出さないタイプだからな」  この場合、威張って言うことか。思わず笑ってしまった俺を見て、勇星も小さく笑った。 「だけど海で俺の曲を歌ってくれてたの、マジで嬉しかった。だいぶ昔に作ったやつだったけど、何で音弥くんが知ってたんだ?」 「まだ施設にいた頃、牧師がCDで聴かせてくれたんだよ」 「……ああ、一度親父に頼まれて録音したっけ」  なるほどと納得する勇星を目の前にして、俺は迷っていた。  楽譜を盗み見てしまったこと。『Genesi』が未完であること。余白に『無能』と書かれていたこと──。  多かれ少なかれ、自分だけの秘密なんて誰でも持っている。勇星の大切な部分に俺が入り込んでしまっても良いものか、簡単に訊いても良いものか、俺は迷っていた。  初めて『Genesi』をCDで聴いた時、フェードアウトして行くピアノの音を綺麗だと思っていた。勇ましい曲の割に、温かく残る余韻が大好きだった。だけど曲調を考えるとおかしな終わり方だとも思っていたのだ。それが未完だったからだと知ったあの夜、俺はそれこそ勇星の「弱さ」に触れた気がした。  弱さを表面に出さない勇星。  だからこそ訊けなかったのだ。
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