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音弥と勇星
『六月二十一日 雨の日は外で遊べないけれど、その分みんなでお話できて楽しいね! 短冊のお願い事が神さまに届きますように』。
六月後半に入ってから、室内は早くも七夕の飾りで埋め尽くされてかなり賑やかなことになっている。色紙を輪っかにして連ねた定番のものから、厚紙を星や笹の葉の形にくり抜いた可愛らしいもの、子供達が描いた織姫と彦星の絵、壁いっぱいの画用紙に描かれた天の川、そして色鮮やかな飾りや短冊が付けられた本物の笹。
それらに覆い尽くされている礼拝室の壁を見て、思わず俺は溜息をついた。
子供達が「七夕・夕涼みの日」を楽しみにしているのは勿論分かっている。だけど、その日が終わった時のことを思うと今から切なくなってくる。いつの日も、祭の後の寂しさは変わらない。楽しみにすればするほど、終わった時の虚無感は大きくなるばかりだ。
俺は掃除用のモップを片手に、壁に貼ってある子供達の「願い事」に目を向けた。
『可愛い小犬がかえますように』『食べきれないほどのお菓子をください』『ゲームソフトか、新しいゲーム機をもらえますように』。欲望剥き出しの、だけど純粋で愛らしい子供達の願い事だ。彼らは七夕の願い事を、クリスマスプレゼントと同じように捉えている。願えば何でも貰えるはず──俺もこの年頃の時はそうだったかもしれない。
「音弥くん、壁見て何笑ってんの?」
横からひょいと顔を出した海斗が、俺の視線の先を辿って行って「ああ」と笑った。その手には俺と同じくモップが握られている。
「子供達の願い事か。これはもう、願い事と言うよりサンタさんへの手紙だけど」
「そういう海斗も、ちゃっかり自分の欲しい物書いてるじゃん。何だよ、『軽くていい感じのロードバイクが手に入りますように』って。そのくらい給料貯めて買えばいいのに」
「相変わらず音弥くんは厳しいなぁ。年下とは思えない」
海斗が照れ臭そうに笑って頭をかいた。大学を卒業して幼稚園教諭の資格を取ったばかりの清水海斗は去年の夏からここで働き始めた、俺の後輩だ。アルバイトの俺より四つ年上だけど、幼稚園児と同じ目線に立って接することができる海斗は「体の大きなもう一人の園児」だった。
「……ん」
俺はある願い事に視線を止めた。
『いい子にするから、お父さんとお母さんを返してください』。
不器用な手付きで書かれた文字を見た俺の脳裡に、おどおどした伏し目がちの、五歳の少年の姿が浮かんだ。
「道介か。確かここに通うようになって一年経つな」
呟いた俺の隣で、海斗が溜息をつく。
「両親がいきなり事故死して、いきなり親戚の家で生活するようになって……。一年経ってもまだ心の整理がついてないみたいだよね。無理もないけど」
子供慣れしている海斗にでさえ、道介は未だ心を開いていないらしい。遊びの時間もおやつの時間も、彼は教室の隅で生前の母親に買ってもらったロボットのオモチャを抱いてじっとしているだけだという。他の子供達とは会話せず、トイレに行きたい時や絵本を読んでもらいたい時も、海斗に無言で訴えるだけだ。
「遊びと学び」をモットーにしている押川新生幼稚園に転園してきた理由は、少しでも道介の心のケアになるようにと彼を引き取った親戚の提案によるものだった。一年経ってもまだ、あまり成果は見られない。
「海斗から見て、道介が楽しそうにしてたのはどんな時だった?」
「うーん、移動動物園が来た時かなぁ。ヤギとかウサギに触って、餌あげたりして嬉しそうだったよ。終わった後はまた元気無くなってたけど」
「動物が好きなのかな」
「アニマルセラピーなんてものもあるからね。人間だけじゃケアできない部分も、動物だったらできるのかも」
俺は軽く頷いて、今晩にでも見谷牧師に相談しようと決めた。見谷牧師も道介のことは特別気にかけている。以前は教会の庭の一角でウサギを飼育していたらしいし、牧師自身も動物好きだから快く承諾してくれるかもしれない。
「なんにせよ、子供達にとっても夏は特別だから。七夕と夕涼みの日と、プールに夏休みに……俺も今年の夏は大忙しだ。デートなんてしてる時間もない」
デートの相手もいないくせにそんなことを言いながら、海斗がモップを片付けに用具室へ向かう。
俺はしばらくその場で子供達の短冊や絵を見つめていた。愛らしい願い事や色のはみ出した絵を見ているうちに、俺も昔、彼らと同じように手紙や絵を描いてこの壁に貼ってもらっていたことを思い出した。
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