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冷たい猛暑日
返せ、返せ、返せ。
頭の中から聞こえてくる見知らぬ声に、私は両手で耳をふさいでうずくまる。どうしました、と目の前で立ち止まってくれた人がいる。
ああ、大丈夫ですと言おうとして、ひっと乾いた叫びがのどの奥から搾り出る。
「〇〇さん?」
手を差し伸べてきた女は、私のことをよく覚えているはずだった。
私よりずっと年下で、若さがあって、エネルギーに満ちていた女。
気に入らなかった。
見るたびにイライラした。
私にないものをどうして、あんたみたいなやつが持っているの。
尊敬するふりをして、見下しているんでしょう。
嘘なんかすぐばれるんだから、若いからって調子に乗らないで。
かわりなんか、いくらでもいるのよ。
私は長いから、いろいろ知っているの。
逆らったり、だれかに話したら、痛い目を見るのはあなたよ。
追い詰めて、おびえさせるたびに、女から消えていくエネルギーや、若さが陰っていくさまがうれしくて、面白くなっていった。
鏡には、皺が深くなり、顔色のすぐれない自分がうつるだけなのにも関わらず。
女から消えていくエネルギーを、私が吸い取ることができるわけもなく、さらにかさかさと、枯れ枝のように乾くだけなのに。
止めることも、できなかった。
止めてくれるひとも、いなかった。
デスクにごみをぶちまけて、無視をして、備品を隠して、追い詰めて最初は面白かったはずなのに、だんだんと、虚しさがつのる。
嫌がらせをするほど全身がだるくなり、頭が鈍く痛むようになった。
私がしてきた仕打ちに耐えきれず、女が辞めたとき、送り出す人間はひとりもいなかった。
こっそり、なにかを渡しているところは見かけたが、余計な言葉を向ける気力もなかった。
頭痛だけじゃなく、微熱が続いて関節がズキズキと痛く、喉もヒリヒリとやけて、咳が止まらず息苦しかった。
……あれからだ。
最初は、寝入りばなに。
次は、明け方にも。
今は、ひとりでいるときに、いつも。
返せ。返して。返して。
見知らぬ声、女とは違う声が聞こえてくる。
「〇〇さんですよね……、あの、救急車を呼びましょうか?」
見上げた、女の横には優しそうな男性が立っている。
その隣に、赤いワンピースを着た少女が、男性の手を握って立っていた。
どんなに追い詰めても、私が欲しかったものを、女は全部手に入れている。
出て行ったときはやつれていて、猫背で、濁った眼差しをしていたのに。
幸せそうな、穏やかな雰囲気をまとっている。
どうして。
どうして、私には。
「おばちゃん、だいじょうぶ?」
少女がよびかける。
ようやく、声の主に出会ったことに気付き、昏倒した。
返せ、返して。
返して。
あたしを返して。
元に戻して。
声は確かに、そう言っていた。
大きな分厚い氷に埋め込まれたような寒気が、全身を包んでいく。
猛暑日が続いているにも関わらず、震えが止まらない。
返せ、返せ、返せないなら。
……おばちゃん、もらっていい?
朦朧とする視界のなか、少女が繋いでいた手を離し、近づいてくる姿が見えた。
口元にはうっすらと、微笑みを浮かべている。
ママには、私がいたのよ。
少女はそうつぶやいて、消えた。
遠くで、サイレンが鳴っている。
果たして、私は間に合うだろうか。
流れる涙まで、痛いほど冷たい。
もうすぐですからね、もうすぐ救急車が来ますから。
呼び掛ける女の声には、溌剌さと張りが戻っている。
助けて、お願いだから助けて。
見苦しく、私は差し出された手を掴んで、すがりつく。
引き剥がそうとする少女に抵抗しながら、みっともなく、いやしく。
許して、どうか生かして。
懇願する私と、女を交互に見ながら、少女は困ったように腕を組み、下唇を噛み締めていた。
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