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1.名もない少女
─二千三十八年。ミナミノクニ─。
満天の星が瞬くその下、奥深い森の中の開けた場所で、真っ赤な明かりが辺りを爛々と照らし出していた。
夥しいほどの奇声が上がっている。
動物園の猿山が近いだろうか。背の高い、無骨な丸太で組まれた壁で囲まれたその集落は、猿山にまた似ている。
その壁の中で、深夜にも関わらず人々が走り回っていた。寝惚けたように脚を縺れさす者も目立つ。誰も彼もが我先にと集落の出口に向かって駆け出していた。
「─オオミコ様はっ!?」誰かが問う。
「─一月も閉じ籠もったまま、出てこられてねぇよっ!」誰かが答えた。
その問答の合間を縫うように、また別の誰かが嘆いた。
「何で、何で村の中に、ネフィルが─」
篝火が蹴り倒される。その火を踏みつけて誰かが逃げる。
「─おい、こっちだ!早くっ!」誰かの声が灯火のようにこだました。
集落にある門、丸太で組まれたその傍に、槍を携えた男が立っていた。彼は門番だ。
麻らしい布を纏い、それを腰辺りで紐で縛っている。長すぎる黒髪を両サイドで纏めて耳の横で数字の8のようにして括っていた。記録によれば角髪と呼ばれる髪型らしい。
彼は空いた手の方を口許に寄せ、逃げ惑う人達に呼び掛けていた。
彼の声は良く通ったらしく、常軌を逸していた幾人かが彼の声に反応した。方向を変え彼の方へ懸命に走り出す。
集落のあちらこちらでは倒された篝火によって火事が発生していた。藁や木材を用いて組まれた家は良く燃えた。
家が焼けようが、足が燃えようが、ミナミのクニの人達は助かろうと死に物狂いで走っていた。その様相は健気とも評し得る。けれどその脚は急ブレーキを掛けて止まった。延焼する建物に照らし出されたその面々は、揃いも揃って青褪めている。
門番の彼は走ることを止めた人達を見つめて眉を顰めた。
その時、彼は背後から白い光が発せられていることに気付いた。
息を飲み、恐る恐る振り返る。
ネフィルがいた。
二頭身の、けれど門番の彼よりも背の高い、光輝くバケモノ。ひょろひょろとした胴と脚は、どうしてその身体を支えているのか疑問に思うほどで、実際質量を推量するに物理的には支持不可能であることが算出される。だがそれはそこにいた。
細い腕に歪なほど異様に大きく発達した手が付いている。その手は大きく広げられ地面を押し潰していた。潰された下で雑草がぱちぱちと鳴る。
門番の彼は「─ひっ」と悲鳴を吸い込んだ。手に持っていた槍を必死に振るう。その切っ先が、光の異形とも云うべきネフィルの、顔面の半分を占めそうな巨大な眼に襲いかかる。しかしその槍は、ぱちぱちと音を立てただけで、まるで空を切ったかのように空振りした。
門番の彼は確実に当たった筈の切っ先をじっと見る。
次に顔を上げたときには、目と鼻の先にネフィルの眼があった。
門番の彼は余りの恐怖からか声も出ず、槍を無闇矢鱈と振り回し後退った。だが、槍はやはりぱちぱちと空振りするだけだった。彼は後退ったその拍子に足を絡ませ尻餅をつく。
その衝撃に一瞬まばたきした合間に、彼の視界は白い光に覆われた。彼には分からなかっただろうが、端から見ていると彼が尻餅をついた瞬間、ネフィルがその引き裂かれたように吊り上がった口を大きく開けて、彼の頭を飲み込もうとしたのだった。
頭を齧られる瞬間、門番の彼は断末魔のような悲鳴を上げた。そしてその後、ぱちぱちと音を立てながら、ネフィルの口の中にすっぽりと収まったのだった。
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