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大人の味
8月初旬。夏の強烈な日差しが降り注ぐ中、懸命に走る人の姿があった。2つの足音は非常に軽く、音の主が幼い子供である事を周囲に知らしめる。
「遅いぞトウマ! 早くしないと売り切れちまうぞ!」
「わかってるってば! シンジロウこそ、お金を忘れてないだろうね?」
「当たり前だろ、ちゃんと持ってきてるよ!」
声変わりにはほど遠い叫びが、長閑な集落に響き渡る。その嵐にも似た賑やかさは、畦道の方へと流れ雑木林の小路を抜け、フェンスを越えた先の坂を登っていく。時刻は午後3時。少年らが全身を汗塗れにし、息も絶え絶えになってまで駆けるには理由があった。
「やべぇ。もうオッチャン来てるじゃん!」
目的地である駄菓子屋の前には年代物の軽トラックが一台停まっており、待ちわびた客によって長い列が出来ていた。並ぶのは数人の大人を除けば、同世代の子供ばかりだ。今日は特別に暑いせいか、普段よりもずっと列が長い。
遅れてやって来たトウマたちは最後尾に甘んじるしかない。待つ間に滝のような汗を手で拭い、荒れた息を整える。焦れる気持ちから背伸びなどをして、先頭の様子を窺うことしばし。自分達の順番になったと同時に、割れんばかりの声でアイス売りに問いかけた。
「おっちゃん、チョコのヤツちょうだい!」
「僕はミルク味がいい!」
どちらの手のひらにも1枚の100円玉が輝く。親から毎日賜る財貨の全てであり、それを今この場で差し出したのである。しかしアイス売りの男は眉尻を下げながら、ゆっくりと首を横に振った。
「悪いねぇ。今日はだいたい売り切れちまったんだ。残ってるのはこれだけだね」
そう言って男が取り出したのは、チョコにもミルクにも似付かない、深緑色のアイスだ。抹茶味である。これは子供向けではなく、保護者の為に用意されたものだ。なので、夏休みに入って毎日のように通っているトウマたちでさえ、一度も口にしたことはなかった。
「どうするトウマ?」
「どうするったって、他に買える所なんか無いじゃない」
すぐ目の前の駄菓子屋はというと、氷菓の取り扱いを止めて久しく、軒下にある劣化の激しい冷凍庫は電源すら刺さっていないという有り様だ。では他の店を探すとなると、それも難しい。遠く離れた隣町まで出向かねばならず、バスや電車に乗るとしても片道分の運賃すら持ち合わせていないのだ。
2人は悩みに悩んだ挙げ句、揃って抹茶味を渋々受け取った。それからすぐに、村で一番大きな児童公園へと向かう。互いに口数は少ない。何か負けたような気分になり、気が滅入るのだ。本来であれば至福のひとときであるハズなのだが、うなだれた肩が何とも気の毒である。そんな傷心をさらに痛め付けるのが、はずれクジと同義とも言える抹茶の味わいだ。
「なんだこれ! すっげぇ苦いぞ!」
「ほんとだ。全然甘くない……」
この商品の売りは、濃厚な茶葉の薫りと控えめな甘味である。大人たちには好評であっても、若年の彼らはそれを愉しむ程に、舌が肥えてなどいなかった。
当然ながら食は進まず、泣き言が飛び出すばかり。更には強烈な日差し。雲ひとつ無い空から降り注ぐ熱線と照り返しの挟み撃ちによって、アイスは早くも形をだらしなく歪ませ、そこからしたたり落ちる滴が手や膝を濡らしてベタつかせてしまう。その不快感が一層幼い怒りを煽り立てる。未熟な自制心はもはや限界を迎えようとしていた。
「ちくしょう! 何だこんなもん!」
シンジロウは癇癪を起こし、手の物を投げ捨てようとしたその時だ。道の向こうから、1人の少女が歩み寄る姿に気付き、振り上げた腕がゆっくりと降りる。2人のクラスメートである『エリカ』が鼻唄混じりにやって来たのだ。
「あれ? シンちゃんにトウちゃん、こんにちわー」
彼女の装いと花凛さは、見る者を爽やかな心地にさせた。新品の麦わら帽子に、そこから垂れる細い髪は滑らかで、そよ風が吹くだけで遊ぶように揺れる。その下はフリル付きのワンピース。控えめに染められた桃色の生地が、焼けた肌と良いコントラストを生み出していた。
予期しなかった少女の登場に、トウマは電撃を浴びせられでもしたかのように固まってしまう。一方のシンジロウはどうかと言うと、大同小異に佇むばかりだ。エリカはそんな2人の状態異常にさしたる疑問を抱かぬようで、同じ調子のまま言葉を続けた。
「あれ、そのアイス。お母さんが食べてる苦いやつだ。どうして他のにしなかったの?」
「いや、これは、その……」
「大人と同じだなんて、2人ともカッコイイね!」
エリカはそう言うと満面の笑みを振りまき、そして立ち去っていった。普段から良く笑う少女であるが、トウマは極めて鮮烈なものとして受け止めた。太陽よりも眩しいものを見てしまった気分になり、心の機能は一時システムダウン。遠ざかる背中をただ無言で見送る他に何も出来なかった。
それから我を取り戻したのは、ベチャリ、ベチャリという粘っこい音を立て続けに聞いた後だ。食べ残しのアイスが暑さに根負けし、アスファルトに不時着したのだ。トウマはその頃になってようやく、2人仲良く呆然と立ち尽くしていた事に思い至る。そして、「遊びに行こう」と声をあげる事で、夢心地の友を現実へと引きずり戻す事に成功したのだった。
これがとある暑い日に起きた、ほんの些細な出来事である。日常の記憶に溶けて消えそうな程にありふれた会話が、ゆくゆくはちょっとした非日常へと誘う事を、この時の2人はまだ知らない。
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