3.尚親と淡雪

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3.尚親と淡雪

 その日の夜、私は尚親の夢を見た。尚親が上地谷を追われ、信濃国(しなののくに)へ落ち延びていた頃の夢を―― * * * * * 「尚親様、剣筋が乱れています」  尚親は剣の修行を装いながら、闇雲に憂さを晴らそうとするような打ち込みを繰り返していた。そんな木刀を受けながら、通孝(みちたか)は小さな主君の心持(こころもち)を心配している。  尚親の(よわい)はまだ十二。頼れるべき家臣は今、通孝を置いて誰もいない。そんな通孝でさえ、まだ十九だ。  今拠り所としているこの地は、もともと育った上地谷(ふるさと)ではない。二年前に突如刺客に襲われ、二人だけで遠く離れたこの北の地、奥寺まで逃げ延びてきたのだ。 「通孝……儂はいつまでここにおらねばならぬ……」 「尚親様……」  カランカランと、握っていた木刀が転がった。木刀を手放したその手は、これでもかと言うほど固く握っている。  尚親が上地の跡取りだと知ると、奥寺の領主、奥寺(おくでら)近朝(ちかとも)は、自分たちを受け入れ(かくま)ってくれた。そして、衣食住の面倒をみるだけでなく、自らが後見人となり、武将としての必要な教育も寺で受けさせてくれた。  昼間は奥寺の菩提寺(ぼだいじ)である昇願寺(しょうがんじ)で学問を学び、終われば奥寺の屋敷の庭で剣術の稽古をするのが、ここでの日課である。 「先日昇願寺の僧に書状を持たせ、上地谷に向かわせております。そろそろ状況も変わる頃でしょう。もう少しの辛抱です、きっと良い返事が頂けます」 「……」  転がった木刀を拾い、通孝は両手で(うやうや)しく手渡した。  最初こそ九死に一生を得たが、年月が経つにつれ、徐々に周囲の空気が変化しているのに気付いていた。上地も奥寺も、同じ外様(とざま)ではあるが仕えている太守が違う。上地は今川家に、奥寺は武田家(武田信玄)に仕えている。つまり敵の領地へ逃げて来たことになる。それは、今川領内がどこも逃げ場にならなかったのを意味していた。  父である尚盛(ひさもり)が家督を譲るため、元服を急がせた矢先の事件だった。誰の差し金で送られた刺客なのかは、二年以上経った今もはっきりしていない。しかしタイミングから見て、家内の誰かが差し向けたのは明らかだった。元服についてあの時点は、上地領内の者しか知らなかったのだから。  未だに黒幕がはっきりしていない上地谷は、安心して戻れる場所では無かった。奥寺の人間は最初こそ賓客(ひんきゃく)として扱ってくれたものの、月日が経てば経つほど、不穏な空気を感じずにはいられない。特に奥寺の家臣の中には、露骨に「いつまで居るつもりなのか」と噂する者もいる。  この時の己には、通孝以外誰一人として信じることが出来ないでいた。
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