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6-3 帰還
様々なことがあった夜が明け、朝になった。
三枝次美が目覚めると、もう大江賢治は起き出していた。
「おはよ」
にっこりと、微笑みかけられる。
「……おはよ」
昨夜、賢治と初めての夜を過ごしたことをありありと思い出す。
「どうしたの?」
「……何でもない」
ちょっと気恥ずかしい。でも、決して嫌じゃない。──昨夜は、素敵な夜だった。好きな人と肌を合わせた幸福感は、まだ残っている。
次美は、急いで身支度を整えた。
「次美、今日帰っちゃうだろ? 今朝は俺が朝ごはん作るよ」
賢治が言った。
この部屋はもともと籠もる為の部屋だ。なので、簡単なキッチンも備え付けられている。食材を差し入れてもらって、朝食や昼食をこの部屋で作ることも度々あった。ただし、作っていたのはいつも次美で、賢治は後片付けを専門にやっていた。
「カッコつけてるとこ悪いんだけど……賢ちゃん、料理出来たっけ?」
次美の言葉に、賢治はその場で固まった。
「……学校の調理実習は、ちゃんとやってたよ?」
「つまり、料理経験ほとんどなし、ね」
「……はい」
「目玉焼きくらいでいいから」
「……お気遣いありがとうございます、次美さん」
いただきます、と二人で手を合わせる。
出来上がった目玉焼きは少し焦げている上に黄身が潰れかけていたが、食べられない程ではなかった。後はトーストとコーヒーの簡単な朝食。それでも、何だか新鮮で幸せな食卓を二人で囲んだ。
後片付けまで二人でやって、改めて賢治は次美と向かい合った。
「次美に、言っとかないといけないことがある」
「うん」
「俺は……“秋月”の力に、目覚めてしまってる」
次美の表情が、不安げなものに変わった。賢治は昨夜焔を殺そうとしたことをかいつまんで話した。風太郎が自分を止めようとしたことも、最終的に友則が止めてくれたことも。
「木野さんが……」
「あの人は多分、最悪俺に殺されてもいいと思ってたと思うよ。そこまで覚悟決めてくれてた人もいるし、何より俺にはおまえがいる」
賢治は正面から次美の眼を見て言った。
「俺は、一生この力を自分の中に封じ込めて生きてくんだと思う。──そんな俺でも、いいかな?」
次美は。
「言った筈だよ、わたし」
ふわり、と笑った。
「あなたが汚れてるなら、一緒に汚れるって」
だってわたしはゲルダだから。あなたを追って、北の果てまでだって行く女だから。あなたが鬼になろうとしたら、わたしも命をかけてあなたを引き戻す。必ず。
「ありがと」
こつん。額と額を合わせる。
「後さ、昨夜みたいなこと、多分俺、他の奴には出来ないと思う」
まだトラウマは残っている。おまえだから、出来た。
「男でも女でも、他の奴では多分無理。――おまえだけだから」
「うん。……ありがと」
恋人達は笑い合った。
その時。ドアをノックする音が聞こえた。
「賢治君、次美さん、入ってもいいかしら?」
「はい、どうぞ」
天地縁が入って来た。入って来るなり、賢治君にお話があります、と縁は言った。
「大江賢治君。あなたも知っての通り、芦田焔の件に決着がついたので、この部屋を出ることを許可します」
「え、てことは……」
「退院よ。お家に帰ってもいいわ」
縁は笑顔で言った。
「良かった! 良かったね、賢ちゃん」
「あ、うん」
突然なので、実感がわかない。家に帰れる。通常の生活に戻れる。
「ご家族には連絡しておきますので、荷物をまとめててね。……それから」
少しからかうような笑みを浮かべる。
「おめでとう、大江賢治君。あなたは“天地”の観察対象から、晴れて要注意人物に昇格しました」
「それ、全然めでたくないですよ。大体、俺ふつーの人でいたいんですけど」
「何を言ってるの。芦田焔を皆の目の前であれだけ完璧に制圧しておいて、『僕は普通の男の子です』なんて通るわけないでしょう」
あの場に何人いたと思ってるの。
「まあ、確かにそうですけど……」
「あなたのことは、風太郎さんとも話したのよ。風太郎さんは、あなたの性格で無闇に力を使うことはないだろうし、むしろ使いたくないだろうと言っていたわ」
芦田先生はさすがに生徒のことが判っている。この力が目覚めるまでに、一旦身も心も滅茶苦茶にされたし、次美の手も手放しかけた。次美とは結ばれたけれど、結局人を殺す直前まで行った。力を持つことにあまりいい思いは持てない。
「もう一つ、風太郎さんが言うには――あなたにはストッパーがいるから大丈夫だ、と」
「木野さんですか?」
「そうね、彼もそうだけど」
縁は次美の方を見た。
「こんな可愛い彼女を、悲しませるようなことをする男じゃないわよね、あなたは」
せっかく結ばれたんだもの。
「それを言われるとな」
賢治は頭を掻いた。
「もしそんなことをしたら、“天地”が総力を上げてあなたを懲らしめてやるから」
「怖いなあ」
「だから、何かあったら遠慮なく言ってね、次美さん」
「判りました」
次美はにっこり笑って答えた。賢治は苦笑いした。
部屋に一歩入った時点で、判った。この部屋にいた二人が、どんな一夜を過ごしたか。
まだ余韻が残っている。二人の、幸せな“想い”が。昨夜ここで行われたのは確かに、想い合っている二人が互いの愛情を交わし合う行為だった。
(少し、妬けるわね)
縁は思った。
(大人だって、ここまで幸せなセックスはそうそう出来ないのよ)
それ故に、この行為によって賢治の内なる力が目覚めてしまったことが少し切ない。
この幸せな恋人達に、わたし達のような無粋な輩がこの先も介入することがないように。縁は、そう願わずにいられなかった。
☆
高くて青い夏の空の下、葛城総合病院の正面入口前で人を待っている一団があった。
「木野君、どうしたの? その顔」
河村朝子は木野友則に訊いた。友則の顔には、まだ腫れが残っている。
「戸田にぶん殴られた」
「無茶をするからよ。自業自得」
「そう、自業自得だ」
戸田基樹が口を挟む。
「こいつ朝子さんの分も一緒に殴って来てたよ、きっと。それより、次美のアリバイ作りにご協力ありがとな」
「大江君と次美ちゃんの為よ。……でも、報酬は高くつくけど」
朝子はいたずらっぽく微笑んで友則を見た。友則は冷汗をかいた。
「お手柔らかに」
「遠慮はいらねーぞ、河村。吹っかけてやれ」
基樹はにやにや笑っている。
「色々参加出来なくて、ストレス溜まってたのよ。覚悟しててね」
うへえ、と友則は天を仰いだ。
「いやホント、手加減してよ、朝子さん。愛してますから!」
「そんな軽い言葉じゃ、誤魔化されないわよ?」
「あ、出て来た!」
彩佳が声を上げた。病院の正面口から、賢治と次美が出て来るのが見えた。二人の方もこちらを見つけ、次美が軽く手を振って来た。
「どうやら、無茶した甲斐はあったようね。二人ともいい顔してる」
朝子が微笑んだ。
「木野さん、約束守ってくれたね。ありがと!」
言って、彩佳は兄の元に駆け寄った。
「お兄ちゃん、次美ちゃん、お帰り!」
「ただいま、彩佳」
賢治は妹に笑いかけた。
彩佳に続くように、賢治の前に人影が立った。
「賢治……」
「……母さん」
「ごめんなさい」
大江美恵子は、息子に頭を下げた。
「今まで来られなくて、あなたに何もしてあげられなくて、本当にごめんなさい」
「いいよ、そんなこと」
今なら判る。母さんが、一体何を恐れていたのか。母さんも、一人の弱い人間なのだ。
「母さん。俺、高校を卒業したら、何処かに部屋借りて一人暮らししようと思うんだ。もちろん、また変な奴に目をつけられないように気をつけるけど」
俺と母さんとは、少し距離を置いた方がいいのかも知れない。今回のことがある前から、実は薄々考えていたことだ。
「だからさ、それまでに自炊の為の料理を教えてよ。今時、料理の一つも出来ないと、女の子の前でカッコつけられないし」
賢治の向けた笑顔に、美恵子は安堵したように微笑んだ。
「判ったわ。帰ったら、きっちり一から教えてあげる」
「お兄ちゃんが引っ越ししたら、遊びに行くね。あ、でも……」
彩佳は次美の方を見た。
「次美ちゃんが来てる時は、邪魔しないから」
「ませたことを言ってるんじゃないよ」
妹の頭を軽く小突く。
「次美ちゃん、お兄ちゃんのこと、ちゃんと守ってあげてね」
「うん、ちゃんと守ってあげるね」
「……俺、守られる方?」
次美と彩佳が楽しげに話しているのを見ながら、賢治は考えていた。
──自分が“秋月”の力に目覚めたことが、いいとは思えない。“天地”にも目をつけられているし、積極的に力を使う気はない。それは縁にも言った通りだ。そこに嘘はない。
でも。
(もしも次美や彩佳や、俺の大切な人達に何か危機が降り掛かった時は──俺は躊躇なくこの力を使うだろう)
それは、確信だった。例え力の持つ狂気に引きずられても、思い出したくない記憶がフラッシュバックしても、きっと俺はそうする。
そんな時が来ないことを願うばかりだ。
「おーい、賢!」
離れたところから、友則が叫んだ。横で基樹と朝子も笑っている。
「おまえの復帰祝いは派手にやるぞ! 誕生祝いは出来なかったからな!」
あの人、また呑む気じゃないだろうな。真っ先にそんなことを考えてしまったのは、全面的に友則自身のせいであって、賢治が悪いわけではないと思う。
「木野君達のところへ、行って来なさい」
母が言った。
「あの人達にも、お世話になったんでしょう」
「ん。……行こう、次美」
「うん」
賢治は次美の手をしっかりと握った。二人は手をつないだまま、友則達の方へ歩き始めた。
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