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3-2 奪還
「──ここですか」
芦田風太郎と武田春樹の目の前には、一軒の日本家屋が建っていた。見たところ、何の変哲もない平屋建てだ。
「ああ。この前芦田焔とやりあった場所とも近い」
住宅街の外れだった。ここにこんな建物があった記憶はない。注意を払われないような仕掛けがしてあったに違いない。
「武田さんは、車で待っててください。いつでも逃げられるようにはしててくださいよ」
「一人で大丈夫なのか、センセイ」
風太郎が焔に受けたダメージは、完全には癒えていない。だが、風太郎は“天地”の支援も断り、ただ一人で乗り込もうとしていた。縁が二人を送り出す時、苦い表情をしていたのは言うまでもない。
「大丈夫ですよ」
風太郎はにっこり笑って答えた。眼鏡も外してはいない。通常の「教師・芦田風太郎」のままである。
それを指摘すると、風太郎はこう言った。
「生徒を迎えに行くんです。教師の姿でいたいんですよ」
──嘘だな、と春樹は踏んでいる。まだ百パーセントの力を出せないだけだ。
「無理はするなよ」
言って聞く人間ではないことは判り切っているので、それだけを言った。
「判ってます」
風太郎も、それだけを答えた。
教師の顔をした男は、家の中へ消えて行った。それを見届け、春樹は自分の携帯を取り出した。
「……今、行きました。……はい、よろしくお願いします」
しばらくして、家の周りに影のように何人もの人の姿が現れた。“天地”の配下の人間だ。言っても聞かないのであれば、判らないように支援するしかない。縁に話をつけ、密かに手配していたのだった。
(さて、こいつらの助けがいらないようにしてくれよ、センセイ)
春樹は家の方を見つめながら、煙草をくわえて火をつけた。ゆらゆらと、煙が空高く登って行った。
☆
大江賢治は、疲労困憊した身体を横たえていた。昨夜は、朝方近くまで責め立てられていたのだ。
(……仕方ないか)
そう仕向けたのは、自分だ。
(──次美)
あれは確かに次美だった。どうしてここにいたのかは判らない。本物なのか、幻覚なのかも判らない。
ただ、彼女がここにいてはいけない、と咄嗟に思った。自分はともかく、彼女がここにいたら命の危険すらあるだろう。
だから「逃げろ」と言った。彼女のことを気づかせないために、他に焔の注意を向けさせないと、と思った。だが、手足の利かない自分には、注意を向けさせる対象は自分自身以外なかった。──つまり、自分とのセックスに。
甘噛みではなくかなり本気で噛み付いたのだが、焔は意にも介さなかった。あいつは俺が抵抗めいたことをすると、お返しとばかりに激しく抱いて来る。どういう反応をすればあいつが悦ぶか、そんなことが判ってしまう程、何度も抱かれた。
ここに連れて来られてから、性的な奴隷同然の日々しか過ごしていない。様々な体位で貫かれ、口で奉仕させられ、時に道具も使われ、卑猥な言葉を浴びせられ、羞恥を煽るような台詞を言わせられた。
自分がまだ正気を保っているのが不思議な程だった。いっそ、壊れてしまった方が楽なのかも知れない。壊れてしまえば、多分あいつの言う“鬼”になってしまうのだろう。
だけど、そろそろ限界が近いように思う。次美の姿が見えたのも、もう壊れかけてる証拠じゃないのか。
考えながらうとうとしていると、襖の外から足音が聞こえた。ここで足音を立てる者は、一人しかいない。あれだけやったのに、まだ足りないのか。もう好きにしろ──と思った時、襖が開いた。
「大江君!」
声の主は、意外すぎる人物だった。賢治は驚いて起き上がった。
「せ、先生!?」
「良かった、無事ですね」
芦田風太郎は、賢治の傍らに膝をついた。
「な、何で……どうしてここに!?」
「もちろん、君を助けに来たんです」
呆然としている賢治に、風太郎は力強く答えた。
賢治は不意に何かに気づいたようにはっとして、急いで着ていた長襦袢の前を合わせた。しかし、首筋や鎖骨付近に付けられた鬱血の痕は隠し切れていない。賢治がここで何をされていたか、繰り返し付けられたであろうその痕は雄弁に物語っていた。
「昨夜、ここに三枝さんが来たでしょう」
風太郎は見なかった振りをして話を続けた。
「彼女が君を夢で見ました。その夢を辿って、ここまで来れたんです」
「次美が……」
──では、あれは本当に次美だったのか。
「焔が帰って来ないうちにここを出ましょう。立てますか?」
「はい……でも、ちょっと待ってください」
賢治は何とか立ち上がった。体中ガタガタだし、足が少しふらつくが、歩けない程ではない。襖にゆっくり手を伸ばす。
がくり、と足の力が抜けた。賢治はその場に崩れ落ちた。
「大江君!?」
風太郎が駆け寄る。
「やっぱダメか……すみません、この部屋から出ようとすると、手足が動かなくなるんです」
風太郎は、賢治の手首に浮かび上がったミミズ腫れのようなものに気づいた。足首にも、同じものが浮かんでいる。
(禁術、ですね)
それが何か、すぐに見当がついた。焔がかけた、見えない枷だ。この咒で四肢の自由を奪い、この部屋に縛り付け、その身を弄んだ。
「じっとしていてください。今、解呪します」
風太郎は口の中で何事かつぶやき、手首のミミズ腫れに触れた。軽い衝撃と共に、ミミズ腫れが消えた。足首も同じように枷を外す。
「これで大丈夫です。さあ、大江君、早く逃げましょう」
確かめるように手を握ったり開いたりしている賢治に自分の着ていた上着を着せ掛け、風太郎は笑いかけた。
「──はい」
少しだけ、賢治の顔に微笑みが戻った。
☆
一人で家の中に入って行った風太郎が二人で戻って来たのを見て、春樹は車のドアを開けた。
「センセイ!」
「大江君、乗ってください」
二人を後部座席に滑り込ませ、車を出す。
「案外、簡単に済んだようだな」
「人避けの効果を過信していたんでしょう。焔本人もいませんでしたし」
家自体のセキュリティはそれ程厚いものではなかった。呪術的なトラップもあるにはあったが、同じ“芦田”の人間であった風太郎には効かないも同然だった。
「これから、何処へ?」
賢治がおずおずと訊いた。
「知人のコネのある病院があります。君には妊娠の心配だけはありませんが、それ以外の身体的な心配はたくさんありますし、精神的ケアも必要です」
「……判りました」
少し安心したように言うと、賢治は目を閉じた。程なく、ドアにもたれて規則正しい寝息を立て始める。昨夜はろくに眠れていないし、それ以前にもともと安心して眠れる環境でもなかった。張っていた緊張の糸が、今やっと切れたのだった。
(あっけなかったな)
密かに、春樹は思っていた。何だか、上手く行き過ぎているような気がする。この前、同じ病院にセンセイの方を担ぎ込んだのと同じような引っかかりを、今回も感じる。
(この引っかかり……一体何だ?)
考えながら、春樹は車を走らせた。
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