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4-3 同居
「どうして木野さんまでいるんです?」
「まあ、荷物持ちだな」
しれっとして友則は言った。まだ焔が賢治を奪い返すべく狙っているという予測のもと、もっとセキュリティの強い部屋に移るということは縁から聞いた。一週間程、安全の為そこに引きこもることになることも。部屋を移ると言っても、身の回りの物しか持っていないので、別に荷物持ちなど必要ない。何故友則がくっついて来ているのか、よく判らない。
「ここよ」
縁に案内された部屋は、病院の一室と言うより高級マンションの一室のように見えた。一介の高校生が使うには、分不相応な気がする。
「……ここ……ですか?」
「ええ。ここは本来、物忌に使う部屋なの」
「物忌──芦田先生の授業で聞いたことあります。今でもそういうの、あるんだ」
「斎戒して穢れを祓うための部屋……でもあるけど、呪術の標的になった人を一時退避させておく部屋でもあるわ。言わば、霊的なシェルターね。だから、ここにいれば例え“芦田”の焔と言えど手は出せない。多少不自由はさせることになるけど、その間に必ずわたし達があの男を見つけ出して確保するから」
「そーゆー性質の部屋だから、ある程度この中で普通に生活出来るようにしてあるってさ。あと、一人じゃ寂しいだろうから、話し相手を用意してるから」
「話し相手?」
「そ。おーい、出て来ていいぞー」
怪訝そうな顔をした賢治を尻目に、友則は部屋の奥に声をかけた。奥の方からおずおずと出て来た三枝次美の姿を見て、賢治はくるりと踵を返した。
「おっと、何処行くつもりだ?」
すぐに友則が立ち塞がる。
「いや、だって……! 何で次美がいるんですか!?」
「おまえ次美と会おうとしねーんだもん」
「だからって……!」
「おまえらに必要なのは、じっくり話し合う時間だと思うぞ。ゆかりんに掛け合って、次美もいられるようにしてもらったんだよ。おまえが二の足踏んでるのも判るけど、ここは二人で話し合え」
「ちょ、ちょっと! 木野さん!」
あたふたしているうちに友則に部屋の中に押し込まれ、ドアを閉められてしまった。恐る恐る振り向くと、次美が複雑そうな表情でこちらを見ている。
……気まずい。
「あの、賢ちゃん……」
「あ、荷物、片付けなきゃ」
荷物なんてそんなにない癖に。思わず逃げ出してしまっている自分がいる。
木野さんの言うことも判る。というか、いい加減次美とは向き合わなければならない、とも自分でも思う。しかし、まさかこんな強引な手段を取られるとは思わなかった。
(いや、相手は木野さんだし、これくらい普通か)
「賢ちゃん?」
背後から声をかけられ、ドキッとする。
「次美、……えーと、家族には言って来たの?」
振り向かずに、訊いた。我ながら、ものすごくどうでもいいことを。
「河村先輩から、一週間程旅行に誘われたって言って来た」
「……そっか、朝子さんとね」
朝子がアリバイを作ってくれているとは言え、一週間くらいが限度だろう。次美がここにいられるのは、その程度だ。
「木野さんに言われて来たんだろ? 無理して来なくても良かったのに」
何言ってるんだろうな、俺は。言いながら賢治は思っていた。本当は嬉しい。彼女が来てくれたことが。でも同時に、自分が彼女をどうしようもなく裏切ってしまっていることを思い出す。例え異常な状況下であったとしても、俺はあの男の愛撫に溺れかけたのだ。
「違うよ」
次美は答えた。
「木野さんに言われたのは確かだけど……それから自分にも訊いてみたの。自分がどうしたいのか。──わたしは、賢ちゃんに会いたい。そう思ったから、ここに来たの」
賢治は振り返った。次美の微笑む姿が見えた。
「……俺には、おまえを抱き締める資格はない」
「資格なんかいらない」
きっぱりと、次美は言った。
「ホントのこと言うと、抱き締めて欲しいよ? でも賢ちゃんが出来ないって言うなら、出来るようになるまで待ってる。抱き締めたいという気持ち以外に、資格とかそういうのはいらないと思うよ」
「一生抱き締めてやれないかも知れないぞ」
「それでも、待ってる」
信じてる。あなたの、わたしへの気持ちを。
「というわけで、一週間、よろしくお願いします」
次美は頭を下げた。
「え、ああ、……こちらこそ」
賢治もつられて頭を下げる。それを見て、次美がくすくすと笑った。ああ、彼女の笑顔は、可愛い。知らず、賢治も自分が笑っていることに気づいた。久しぶりに笑った気がした。
夕方になって、友則から内線電話がかかって来た。この部屋では携帯電話が禁止されているので、数少ない外部との通信手段だ。
「恨みますよ」
賢治は精一杯不機嫌な声で言ってみたが、
「あー、恨め恨め」
と軽いノリの答が返って来た。ダメだ、この人全然堪えてない。
「ていうか、まさか俺と次美を二人きりにしたくてまたあいつが狙ってる、なんて言ってるわけじゃないですよね?」
あんたは嘘はつかないけど、出まかせは言いますからね。
「残念ながら、まだ狙われてるのは本当だ」
思いがけず真面目な声で言われ、びくり、と体が震えた。
「俺も、あっしーもゆかりんも、武田さんも、芦田焔はまだおまえを諦めてない、と結論付けてる。ただ、仕掛けて来るのはほとぼりがある程度冷めてからだろう。今は多分、こちらの様子をうかがってるってとこだな」
「マジですか……」
「マジだよ。だからおまえはそこにいろ。そのシェルターは、武田さんレベルに“視える”人でないと、外からでは中にいる者の気配すら判らないらしい。──おまえの気配が消えたとなると、あいつも焦るだろう。そこに隙が生まれる」
後は任せろ。友則はそう言った。
「でもって、せいぜい次美との同棲生活を楽しんでろや。んじゃな」
一方的に電話は切れた。
普通に暮らそう、と二人で決めた。一定の距離を置きつつ、互いが互いの部屋に遊びに行っているような感覚で、普通に過ごそう、と。
わだかまりがまだ完全に消えたわけでもない。それでも、形だけでも以前の二人のように振る舞っていた──多分。だが、それが完全に以前通りかというと、そうでもないのは明らかだった。手をつながない。ハグもしない。キスももちろんしていない。何処か微妙に距離がある。
薄い膜一枚隔てたような関係に変化が現れたのは、四日目の夜のことだった。
真夜中。次美はふと目覚めた。
寝室にはベッドが二つあり、二人はその間をカーテンで仕切って使っている。そのカーテンの向こうから、苦しげな呻き声が聞こえた。
「賢ちゃん……?」
次美はカーテンを細く開き、顔を覗かせた。
──悪夢にうなされる賢治がいた。
全身にびっしょりと寝汗をかき、何かにすがるようにシーツを握り締め、苦しい声を上げて。
(賢ちゃん!)
ベッドに横たわる賢治の上に、その身を喰らおうとする男の姿が見えた気がした。どうしたって思い出してしまう。一体、彼は今までどれだけ悪夢にうなされる夜を過ごして来たのか。彼の心は、まだ喰らわれ続けている。
「賢ちゃん! ねえ、起きて! ねえ!」
気がつけば次美は賢治を揺り起こしていた。これ以上、悪夢に彼の心を喰らわせてはいけないと思った。
「……つぐみ……?」
目覚めた彼の表情が、妙に幼い気がした。次美は賢治の胸元にすがり付いた。
「お、おい、次美……」
「……ないよ」
次美は顔を上げないまま、何事か言った。
「え?」
「ここには、賢ちゃんに酷いことをする人は、いないよ」
ああ、そうか。また、悪い夢を見ていたのか、俺は。具体的なものではないけれど、自分がどっぷりと穢れに染まってしまうような、そんな夢を。
次美がすがり付いているのは、賢治の着ているパジャマの胸元だ。思えば、次美は一度も賢治の身体に触ろうとはしなかった。人肌は、あの男との行為を思い出させてしまうだろうから。そして次美もあの一件で傷ついていたのだと、賢治は改めて気がついた。
不意に、次美への愛しさが込み上げて来た。思わず抱き締めようとして──その手は途中で止まった。出来ない。
「俺は汚れてる」
身も心も、汚されてしまっている。
「おまえを抱き締めると、汚れがおまえにまで移ってしまう」
おまえはこんなにも清らかで綺麗なのに。
次美は顔を上げた。
「あなたが汚れてるなら」
涙をにじませながらも。
「わたしも、一緒に汚れる」
まっすぐに、言った。
──なんて、美しい。
これまでずっと彼女を見て来た中で、今の次美が一番綺麗だと、素直にそう思った。
賢治の腕が、次美の背に回った。しっかりと抱き締める。柔らかい。次美も、賢治の背にそっと腕を回す。
「嫌じゃ……ない?」
「嫌じゃない」
不思議と、あの男のことは思い出さなかった。もっと彼女を感じていたいと思った。柔らかくて、華奢で、いい匂いがして。
もう一度、彼女と目を合わせる。目の前に、彼女の唇があった。賢治はそっと自分のそれを重ねた。二人はついばむような口付けを何度も繰り返した。
その夜、二人はただ抱き合ったまま、一つのベッドで眠った。悪い夢は、もう、見なかった。
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