6-1 覚醒

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6-1 覚醒

 芦田焔は大江賢治と対峙していた。  賢治は涼やかに笑っている。その表情が、何ともそぐわない。自分を犯した男に向ける顔ではない。彼にああいうことをした張本人が思うことではないのだが。 「しばらくだね、焔。俺がいなくて、寂しかった?」  何処か甘えるような口調で、賢治は焔に言った。 「おまえは……“天地”に保護されているんじゃなかったのか」  それが何故ここにいる。 「まあ、そうだけどね」  賢治は小首をかしげた。 「どうしてもあんたに会いたくて」  言いながら一歩、踏み出す。焔は思わず一歩、後ずさった。 「あれ?」  賢治はそれを見て、微笑みながら言った。 「どうしたの? せっかく俺の方から会いに来たのに。つれないなあ」  あんなに抱かれてやったのに。  賢治はするり、と焔に近寄って行った。 「あんたはまだ、俺が欲しいんだろ?」  キスでもするように、顔を近づけて。焔の頬に左手を伸ばして。 「俺にあんたのを突っ込んで、思い切り揺さぶりたいんだろ?」  彼は、こんな淫蕩な表情をする男だったか。こんな男を誘うような真似をする男だったか。──彼はここまで美しかったか。 (まさか)  まさか……そんなことが。 「やってみたら? ここで。その代わり、」  美しく笑いながら。 「その前に殺すから」  焔は賢治の手を振り払い、飛びすさった。 「残念。もうちょっとだったのにな」  賢治の右手には。青白く光る、“力”の塊があった。それは鋭い刃にも似た、明らかな殺意が込められた光だった。 「おまえは……まさか」  賢治の全身から、“気”が立ち昇る。流れる水が渦を巻くように。その中心にいる彼は、──いや、これは本当に「彼」なのか。男でも女でもなく、またその両方であるかのように、ただ、美しくそこにいる。 「……“秋月”か!」  彼の中の“秋月の女”が、目覚めたというのか。  手にした“力”を、焔に向かって投げつける。焔は咄嗟に防御の結界を張った。二人の力がぶつかり、相当な衝撃が走る。一瞬顔をかばい、視界が遮られる。次の瞬間、目の前で美しい顔がにっと笑った。しまった、と思った時は既に遅く、賢治の手が焔の首を捕らえていた。指と共に、賢治の力が首に巻き付き絞め上げた。 「どうやら、あんたより俺の方が強いみたいだね」  笑顔で、首を締め付ける。  そこへ。 「大江君!?」  駆けつけたのは、焔を追って来た風太郎達だった。 「ああ、芦田先生。こんばんは」  賢治は全く動じずに、彼らに笑顔を向けた。 「賢治君……“秋月”の力に目覚めたというの」 「ヤバいな──ありゃかなり強いぞ」  縁も、春樹も、一目で判った。大江賢治の持つ“力”が、恐ろしく強いものであることを。この少年が、ここまでの力を秘めていたとは。ここにいる全員でかからなければ、抑え切れないかも知れない。 (……いえ、それ以前に)  縁は、内心思っていた。 (彼の力は、扱いを間違えるとこちらにも甚大な被害が出る……!) 「……武田さん。あれは大江君本人か」  風太郎がこそりと訊いて来た。 「残念ながら本人だ。力の持つ狂気にかなり引きずられてるがな」  人格が違うわけではない。ただ、力の狂気に心が支配されている。 「そうか。……なら、彼は僕の生徒だ」  風太郎は彼の生徒に向かって一歩進み出た。ちらり、と賢治は風太郎を見た。 「先生、そこで待っててくださいね。今こいつ殺しますから」  軽い用事でも済ませるように、言う。冷酷な眼で、愉しそうに。 「その手を離せ、大江君。そいつを殺してはいけない……そいつを殺せば、君は本当に鬼と化してしまう」  風太郎は賢治を説得するように語りかけた。 「どうして?」  心底不思議そうな声が返って来た。 「先生がそれを言いますか? 先生だってこいつ殺したいでしょ? ──こいつが俺に何をしたのか、あなただって知ってるでしょう」  指に力を入れる。ぐ、と捕らえられた男が呻いた。 「“秋月の女”は自分の身を汚した男を許さない。俺だってそうだ、こいつを殺さずにいられない。“芦田”のあなたに、止める筋合いはないですよ」 「確かに、“芦田”の狂気を内に秘めた僕に、君を止める権利はないのかも知れない。……けれど」  風太郎は眼鏡を()()()。 「僕は教師です。自分の生徒が目の前で道を踏み外そうとするのを、僕は教師として、黙って見過ごすわけには行きません!」  教師は、教師の覚悟を持って言い放った。  賢治の瞳が、わずかに揺れた。  木野友則は、人垣の後ろで軽くストレッチをした。一つ深呼吸し、自分の顔をぱん、と叩く。 「……さて」  真剣な表情。 「一世一代、命がけの大芝居の始まりだ」  取り囲む人々の頭越しに、賢治と風太郎が睨み合っているのが見えた。  幕を想像する。自分の前に、見えない緞帳が下がっている。その幕が、イメージの中でゆっくりと上がって行く。目の前にあるのは、舞台だ。 (出番だ)  木野友則は、自らの舞台に踏み出した。 「はい、どいたどいた、ちょっと通してね」  良く通る声が聞こえた。  と同時に、遠巻きに取り囲む“天地”の配下の者達をかき分けるように、友則が姿を見せた。 「どけよ」  その、一言で。周りの者が道を開いた。声に、存在に、途轍もない圧がある。  友則はゆっくりと進んだ。一歩進む毎に、彼の纏う雰囲気が変わって行く。ただの大学生から、観客の目を惹かずにはいられない、俳優としての木野友則に。 「木野君、何をする気……!?」  止めようとした縁を、風太郎が制した。 「幕が開いています」 「風太郎さん?」 「舞台の上の役者の演技を邪魔するのは、マナー違反ですよ」  ──木野友則が、舞台に立っている。  それだけでも星風演劇部に関わる者にとっては刮目すべきことなのに、彼は百パーセントどころか百二十パーセントの演技をしようとしている!  こんな時なのに。いや、こんな時だからか。  友則は賢治の前に立った。 「木野さん……!」  無論、賢治も気がついている。今の友則が演技者としての彼であることを。“秋月の女”の狂気と地続きにつながっている、本来の大江賢治が震えた。背筋がゾクゾクする。 「何やってんだよ、賢。いつまでそんなヘタレ野郎に構ってるつもりだ?」 「で、でも、木野さん!」  呑まれそうになる。一人で舞台を一杯にする、木野友則の存在感に。それが全部、自分一人に向けられている。 「そんな奴に構ってる暇なんか、俺らにはない筈だ。つーか時間がもったいないだろ。そんな暇があるんだったら、」  友則はにっこりと笑った。誰をも魅了する、実に魅力的な笑顔。その笑顔のまま、右手を差し出す。 「賢治、俺と一緒に、面白いことしようぜ?」  ……同じ言葉を、以前に聞いた。目の前の人から。あの時と同じ笑顔で、同じように右手を差し出して。 「ずるいなあ、木野さんは」  困ったような、笑ったような、そして泣き出しそうな表情で、賢治は言った。 「そんな顔でそんなこと言われたら、その手を取らざるを得ないじゃないですか、俺」  十四歳の自分を、演劇というものを発見した自分を、木野友則と出会ってしまった自分自身を、なかったことには出来やしない。  賢治の手が、焔の首から離れた。焔は咳き込みながらその場に崩折れた。賢治はあの時と同じように、友則の手をしっかりと握った。  力の気配が一瞬で消えた。賢治はすっかり普段の彼の姿に戻っていた。 「さ、もう帰ろうや、賢」 「はい。……でも、その前に」  賢治は焔に向き直った。その眼が瞬時に鋭くなる。賢治の指が、焔の額に伸ばされた。まるで銃を突き付けるように。ぴたりと照準が合う。そこから、紅色の光球がずるり、と引き出された。焔の体から引きずり出された光球を、両手でつかむ。輝くそれを、賢治は口付けるように吸収した。 「な……にを、した……」 「あんたの力、根こそぎ喰ったよ」  冷ややかな視線と共に、賢治は答えた。 「こうすればもう、逃げ隠れ出来ないだろ。俺に手を出すどころでもなくなるだろうしさ。──ま、懲りずにまた来たら」  眼に冷酷な光を帯びる。 「その時はマジで殺すぞ」  美しい鬼はそう宣言した。 「賢、済んだかー?」  友則が声をかけた。 「はい、済みました」  賢治はにこやかに答えた。風太郎達が歩み寄って来る。友則はさり気なく賢治を焔から離れたところへ連れて行った。その一瞬。友則が、焔に向かってこの上なく勝ち誇った表情をしたのを、風太郎は見た。 (悪意……ですね、あれは) 「賢、そーいや次美どーしたよ?」 「え」  友則の問いに、賢治はぎくりとして答えた。 「えーと、……部屋で寝ててもらってます」 「はあ? おまえバカだろ、何だって次美放っといてこんなとこほっつき歩いてんだよ。しかもあんなヘタレに付き合ってやるとか、ないだろそれ」 「……ですよねー……」 「てかおまえ、あれ使ったの?」 「あれ?」 「俺が差し入れに入れてやったあれ」 「あー、あれですか。って、言うわけないでしょそんなの! 第一、あれセクハラとしか思えませんでしたよ」 「先輩としての愛ある心遣いのつもりだったんだけどなー」 「バカですかあんた。とにかく、プライベートに関することなんでノーコメントです!」 「出会った頃の素直なおまえは何処行っちまったんだよ」 「悪い先輩がいましてね、その人の影響受けちゃったようですね、どうやら。その人によると、俺は状況適応能力が高いみたいですから」 「言うねぇ、おまえも」 「環境が悪いんで」  二人は吹き出した。  美しい鬼も、この場の皆を圧倒した俳優も、何処にもいない。完全にいつもの彼らに戻っている。 「何なんだ……あの男は」  焔が呆然と言った言葉が、風太郎の耳に入った。 「木野君のことですか? 何の霊力も持たない、一介の俳優ですよ。……ただし」  ちらり、と従兄の方を見やる。 「それ故に、僕やおまえより術者としての格は上です」  焔は、友則と話している賢治の、屈託のない笑顔に向かって手を伸ばそうとした。風太郎がその腕をつかんだ。 「駄目ですよ」 「あれが欲しかったんだ」  あの、綺麗な彼が。 「それでも、彼を抱くのに手足を封じたおまえは、例え彼を抱き締めても抱き締め返されることはありません。絶対に」  伸ばされた手は、賢治に届くことなく地面に落ちた。  焔の身柄は“天地”の者達に確保され、車に押し込まれて行った。風太郎は友則に声をかけた。 「木野君、もう遅いんで、送って行きますよ。──武田さんが」 「俺かよ!」 「僕は足を持ってないんです」 「あんたいつでもそれだな」 「先生」  賢治が風太郎に頭を下げた。 「さっきは、すみませんでした」  先程までの鬼としての自分は、通常の自分ではない。が、自分の中に存在するのは確かだ。 「いいんですよ。ある意味、本当のことですし。それより、君がこちら側に戻って来てくれて、何よりです」  風太郎は教え子に微笑んだ。 「無茶をするのね」  縁が話しかけて来た。 「無茶は基本スキルなんでね」  にや、と友則は笑った。
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