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1-2 不穏
「賢ちゃん、一緒に帰ろ?」
部活が終わり、帰ろうとする賢治に、三枝次美が声をかけて来た。
「ああ、いいよ」
賢治も微笑んで答えた。周りにいた下級生の女子達がきゃあ、と歓声を上げたが、いちいち反応していたらキリがないのでスルーする。
校門を出て、駅までの住宅街を歩きながら、どちらからともなく手をつないだ。
次美とは家が近所なこともあり、保育園の頃からの付き合いだ。子供の頃から一緒にいて、気がつけばお互い意識するようになっていた。賢治の容姿に惹かれて告白して来る女子も多かったが、付き合いたいと思うのはやはり次美一人だった。
賢治は次美をちらりと見た。肩まで伸ばした髪がさらさらと風に揺れている。ぱっちりとした眼に、きめ細やかな白い肌。彼女も結構な美少女なのだ。今の二人は、校内でも有名な美男美女カップルだ。
こうやって、手をつないで歩くのはたびたびだ。ハグもしているし、キスもしている。──ただ、その先にはまだ進んでいない。
我ながら、初心な恋愛をしている、と思う。まだ高校生で未成年で、親のすねをかじっている身で、何かあった時の責任が取れないから──というのはまあ建前だ。性格的に潔癖なところがあるのも認める。
──本当のことを言うと、一度だけ、一線を越えそうになったことがある。
まだ二人が中学三年の頃だ。両親は妹を連れて出かけてしまい、受験を控えていた賢治だけが家に残っていたところへ次美が遊びに来た。とみに女性らしくなって来た次美の身体のラインに目を奪われ……気がつけば、次美をベッドに押し倒している自分がいた。腕の中で服を乱して、ぼろぼろ涙を流している次美の姿を見て、一瞬で頭が冷えた。何してんだ、俺。平身低頭謝ったが、しばらく口も聞いてくれなかった。
その時の何とも言えない気まずさを、多分今でも引きずっている。賢治も年頃の男子であるから、好きな女の子に触れたい欲はある。だけど、あの気まずさがあるがゆえに、安易に次美に手を出すことが出来ないでいるのだった。
「ね、賢ちゃん」
次美が話しかけて来た。
「明日、彩ちゃんとプレゼント買いに行く約束してるの。バースデーパーティー、楽しみにしててね」
明日の七月十五日は賢治の誕生日だ。この日、演劇部創設メンバー中心でバースデーパーティーを開くことにしている。次美は賢治の五歳下の妹・彩佳 とも仲がいいので、よく一緒に買い物に行ったりしているのだ。
「何くれるの?」
「秘密」
ふふ、と次美は笑う。可愛い、と、思った。
「木野さんもね、張り切ってたよ。『料理は俺に任せとけ』って。腕によりをかけるって言ってた」
「木野さんねえ……」
木野友則が料理上手なのは皆の知るところである。だから、賢治が友則の名前を聞いて微妙な表情になったのは、それが原因ではなかった。何日か前に賢治が友則に会った時、彼は満面の笑みでこう言っていたのだ。
「賢のバースデーパーティーだ、めでたい席だからな、大いに呑むぞ!」
友則は現在大学一年生だ。留年も浪人もしていないから、必然的に未成年である。果たしてあの人は自分が未成年だということを自覚しているんだろうか。ていうか、人の誕生日を飲酒のダシにしないで欲しい。友則の演技にはどこまでもついて行きたいと思うが、友則の性格には時々ついて行けない。
「でも、みんなでにぎやかにパーティーするのもいいけど、賢ちゃんと二人っきりでお祝いするのもいいかなー、なんて思ったりして」
「え」
次美の言葉に、賢治はドキッとした。さっきまで思い出していたことが、握った手を通して次美に伝わっていないかと、ありえない心配をする。いやいやいや、多分次美は二人でデートしたいって、そういうことを言ってるんだ。彼女にかかると、賢治も簡単に翻弄されてしまう。
──優等生だ好青年だ美少年だと、傍からは色々言われるけど、俺も一皮むけばただの男なんだよね。
賢治は心の中でため息をついた。
と。
二人の行く手を、長身の影が塞いだ。
「え?」
つい今しがたまで誰もいなかったのに。
目の前に、三十代前半のスーツ姿の男が立っていた。賢治は思わず次美をかばうように前に立った。端正な顔立ちをした長身の男。一目見た時から、理由は判らないが賢治の脳裏に危険信号が浮かんだ。おまえは時々妙な勘が働く、と仲間達にも言われている。こういう直感は外れない。
男が、にやりと笑った。
「……大江賢治君、だね?」
「そうですが……どなたですか?」
出来る限り平静な声を出すように努める。
「私の名は焔 という。──いずれおまえの主になる男だ」
「主? 何ですかそれ」
危険信号はおさまらない。それどころか、男と言葉を交わすことで強くなって行く。
「近いうちに判るさ、……“秋月の女”」
「──どういう意味だ」
低い声で発せられた賢治の言葉には、殺気さえ含まれていた。容姿こそ中性的にも見える賢治だが、女性扱いされるのはひどく嫌う。
「躾け甲斐がありそうだな。だが、まだその時ではない」
男は酷薄な笑みを浮かべつつ、二人に背を向けた。
「楽しみにしているぞ」
男はそのまま、宵闇の迫る街中へと消えて行った。
「……何だ今の」
賢治は独りごちた。後ろで、次美が賢治の服をぎゅっと握った。
「ただいまー……」
「お帰り。遅かったね、お兄ちゃん」
中学生になったばかりの妹が帰宅した賢治を迎えた。彩佳は賢治とはそれほど似ていないが、明るい笑顔と溌剌とした雰囲気が兄の欲目を除いても可愛らしいと思う。多少ブラコン気味で、同級生の男子などには目もくれないのはいいのか悪いのか。
「お帰りなさい」
母の美恵子も声をかけて来た。
賢治は母親とよく似ている。そっくりと言ってもいい程だ。どういう遺伝子のいたずらか、母の面影は娘の彩佳ではなく息子である賢治に受け継がれてしまっていた。
「最近、なんかお母さん、お兄ちゃんに冷たくない?」
彩佳がこそっとささやいて来た。
「んなわけないだろ」
賢治も小声で答えた。……が、実のところ賢治自身も同じことを感じていた。今の声音も、何処かそっけない。何となく、十八歳の誕生日が近づくに連れ、母の態度がよそよそしくなって来た気がする。
もともと、賢治に対しては母はそう甘い方ではなかった。「男は男らしくあれ」と言われ続けて育ち、女性的なものに興味を示すと目を吊り上げて怒られた。ある意味「毒親」と呼ばれるものに近いのかも知れない。高校で演劇部に入ると言った時も、最初は反対されたものだ。文化系の部活は女子が主体になることが多いのは確かだが、こればかりは譲るわけには行かなかった。結局、部長である友則にも説得に参加してもらって、やっと許してもらった。賢治が女性扱いされることに対して嫌悪感を持つのは、母が彼にかけた呪いなのかも知れなかった。
ちなみに、彩佳と母とはまるで姉妹のように仲がいい。
「賢治、どこへ寄り道してたの? こんなに遅くなって」
母は夕飯の支度をしながら訊いて来た。やっぱり何処か声音が冷たい。
「ちょっと帰り道で変な奴に出くわしちゃってさ。念の為に警察行って、不審者がいたって通報して来た」
「不審者ですって?」
「えー、それ気をつけなきゃダメだよー。お兄ちゃん、そこらの女の子よりよっぽど美人なんだから」
妹の言葉に、賢治は苦笑した。
「それ、警察の人にも言われたよ」
「大丈夫なの? そんな不審者なんて」
「警察の人は、パトロールを強化してくれるって言ってたよ」
「どんな奴だったの?」
「三十過ぎくらいの、結構背の高い奴で……そーいや、わけの判んないこと言ってたな。俺のこと、“秋月の女”だって」
その言葉が賢治の口から出た途端、台所から派手に食器を割る音がした。
「母さん!?」
「お母さん!」
兄妹は驚いて台所に向かった。割れた食器のかけらが散乱している中、母は血の気の引いた青い顔で立ち尽くしていた。
「何やってんだよ、母さん」
賢治はかけらを拾おうと母の足元にしゃがみ込んだ。と、母は賢治から逃れるように後ずさった。
「え?」
賢治は顔を上げた。見上げた母の目には、明らかに一つの感情が浮かんでいた。──恐怖。怖がっている? 俺を?
「あきづきの……おんな? あなたが?」
「母さん?」
賢治の声で母は我に返った。
「……ごめんなさい、ちょっと具合が悪いみたい。横になっていていいかしら」
「……あ、うん。後は俺と彩佳でやるよ」
「お母さん、大丈夫?」
「ええ、横になってれば大丈夫だから」
そう言って母は寝室へと去って行った。兄と妹は顔を見合わせた。
「──どうしちゃったんだろ、お母さん」
「さあ……?」
“秋月の女”。その言葉に反応したように見えた。しかし、今の賢治にはそれが何を意味するのか、判らなかった。──それが、大江賢治の生涯のうちで最悪の日々をもたらす結果になることも。
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