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笑うってこういうことだったね
クロヴィスが、リーゼロッテとつないだ手を引いて、リーゼロッテを起こす。コートを巻き付けるようにしてリーゼロッテの体を隠したクロヴィスを見とがめ、老婆が眉を吊り上げた。
「クロヴィス・ティーゼ!私のお姫様をどこにつれていくのですか!」
老婆がこちらに手を伸ばすのを、クロヴィスがひょいとかわして扉へ向かう。
あわてたのか、自身のスカートの裾を踏んでつんのめった老婆が転び、驚愕の表情を浮かべた。
「あなた……なにを……」
「毒には毒を。師匠、何年あなたの弟子をやっていたと思うんですか。知識は進歩するものです」
そう言って、クロヴィスはふわりと白いなにかを投げ捨てる。それは、百合の描かれたハンカチだ。
「あ……あ……」
「解毒薬なんてそらで作れます。同時に――それを進化させた薬も。師匠。あなたの腹心たちが、どうなっているか、お気づきですか」
「な……っ!お前たち!お前たち、来なさい!」
老婆が叫ぶ。しかし、それにこたえる姿はなく。ベッドの横、首に針を刺された状態の双子がすうすうと寝息を立てているのが、クロヴィスの肩口から見える。
クロヴィスがやったのだろう。きっと、老婆の気をそらしながら、周到に。
「ヴィー、すごい、のね」
「リズ、大丈夫?まだ薬が残っているでしょう」
「しゃ、べれる、くらいには、大丈夫」
ろれつが回らない。けれど、少しずつ体の感覚が戻ってきた。リーゼロッテはクロヴィスの手を握る。
老婆が、クロヴィスを睨みつけている。
「リズ、絶対に、手を離さないで」
「うん――うん!」
瞬間、クロヴィスは走り出した。
リーゼロッテが振り返って、気付く。老婆の手に、なにかが握られている。
「あの女がこんなことで君をあきらめるはずない」
クロヴィスが小さく言う。リーゼロッテは、ぎゅう、と音が出るほどにつないだ手を握り締めた。
絶対に離さない。あの日、伸ばせなかった手――伸ばして、繋げなかった手がある。差し出した手に触れてもらえず、差し伸べられている手を無視して心を凍らせた。
かちり、かちりと、壊れた陶器のような心が組みあがっていく。
ここには固くつないだ手があった。だから、もう、リーゼロッテは無敵なのだ。
「ヴィー、離さないわ。絶対離さない。一緒に帰ろう」
あの日、森の中、共に過ごした湖畔の家へ。
リーゼロッテが見上げると、クロヴィスははっとしたように目を見開いて――そうして、にっこりと笑った。
「――もちろん」
声とともに、クロヴィスが窓枠を乗り越え、跳躍する。およそ三階。気付いた高さは、けして低いものではなかった。けれど、リーゼロッテはクロヴィスの手を握ったまま、けして離さない。
――信じているから。
クロヴィスを、ではない。もちろん、リーゼロッテを、でもない。
ここは、乙女ゲームの世界だ。けれど、リーゼロッテたちが今生きている世界なのだ。
知識と体験が違うように、ここは夢でもなんでもない。だって、リーゼロッテは、もう、ゲームのヒロインのリーゼロッテではない。
「私」は、ヴィーのことを愛している、リズなのだ。
だから、決まりきった結末へ至る、そのシナリオを変えて見せようという、自分たちの意志こそを信じていた。
クロヴィスが木の枝へたん!と音を立てて足をつける。揺れがひどく、突き刺さる枝で血が流れる。クロヴィスの頬はさっくりと切れていた。
クロヴィスは、肉体派ではない。それでも、リーゼロッテを救うべく無茶をしている。
「ヴィー、大丈夫よ、私たち、絶対、帰るんだから!」
クロヴィスの足に、枝が刺さっている。汗の吹き出したクロヴィスの腕から飛び出し、リーゼロッテは今もしびれる足で太い枝を蹴った。
「う、あ……っ!」
「リズ!」
リーゼロッテの腕を枝がこすって赤い線ができる。けれど、そのまま落下するようにして木から飛び降りた。
落ちて、骨折で済めばいい、そう、目を閉じたリーゼロッテは、繋いだ手を引いて、落下時に抱きしめるようにしてリーゼロッテをかばって転がったクロヴィスの腕の中にもう一度閉じ込められた。
「っ痛……」
「ヴィー!大丈夫?」
「大丈夫。リズ。……手、離さないでくれてありがとう」
「――当然でしょ、ヴィー」
そのとき。
ぽたり、と、手に落ちたのは何だったのだろう。
熱い雫がいくつもつないだ手を濡らしている。
「リズ」
クロヴィスが、驚いたように目をしばたたく。つないでいない手が、リーゼロッテの目元へ寄せられて、そこで、ようやくリーゼロッテは自分が泣いていることに気づいた。
「私、泣いて……」
「リズ、表情が、」
「え?」
クロヴィスが、泣きそうな顔でリーゼロッテを見ている。けれど、その表情はやわらかくて。
――ああ、そっかあ。
リーゼロッテは涙を流したまま、口の端を上げた。目が細まって、口からあふれた息が音を出す。
「ふふ……ヴィー、変な顔」
笑うって、こういうことだった。
リーゼロッテは「笑った」。何年も使っていなかった表情筋がぴりぴりする。それは、きっと流した血のせいだけじゃない。
「リズ、リズ……」
はっとしたように、クロヴィスが、リーゼロッテを抱きしめる。うずくまったまま、ぎゅうっと。
だからリーゼロッテは困ったように微笑んだ。
「ヴィー、苦しいわ」
「リズ」
クロヴィスが、囁く。
今までで、一番優しくて、残酷な声がした。
――ごめんね、愛しているよ。
その言葉が、リーゼロッテの脳に透過すると同時に。
パン!と、乾いた音。
そうして、しかと握り締められた手から、力が抜けていく。
薄い金髪の毛先が赤く染まり、リーゼロッテの思考を奪った。
「……ヴィー?」
頭上を見上げると、憤怒の形相で、なにか筒状のものを構えている老婆。
後ろから取り押さえられたのか、その体を窓のヘリにたたきつけられているのが見える。
あれは、王太子殿下と、その友人?
ざわめきが近づいてきて、やがて、クロヴィスに気づいたらしい、血まみれのリーゼロッテたちを悲鳴が取り囲む。
そう、取り囲んだ。
――その悲鳴を上げているのが自分だなんて、このときのリーゼロッテには気づくことができなかった。
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