あの子がいなくなった

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あの子がいなくなった。 子どもは目を離すとすぐにいなくなる。一般にはそういう時期は2才頃までで、3才になれば「そこで待っていてね」と言えばその場で待っていてくれる。 しかし、障碍児となると話は別だ。立派な手足がついていて力もあるのに、小学生になっても待っていることができない。だから、外に行くいくときは必ず手をつなぐ。車が来ると危ないのもわからないから、避けることもしない。あの子から目を離してしまったときは、いつも真っ先に命の心配をした。 私の子は生まれつき内蔵の病気もあって、15才で死んでしまった。悲しみと介護からの解放と、さまざまな感情が入り交じった数ヶ月が過ぎたあと、どうにもおさまりが悪い空っぽの心を埋めたくて、移動支援の仕事をはじめた。 発達障害を含めた子どもの移動支援は、公園やスーパーに行くだけではなく、電車やバスの使い方も教える。 たくさんの子どもを育てているような気持ちになると同時に、あの子の命に価値を見出せる仕事だ。 その子は8才の女の子だった。多動傾向があって、要注意と言われていたけれど、私が受け持っていた子どもの誰より賢かった。その子は海の音が好きだったので、いつも電車とバスを乗り継いで、一緒に出掛けていた。 二人で波の音を聞きにいくだけのお出かけ。その子の安らかで穏やかな顔をみるだけで、私はここまで来て良かったと、毎回思うのだ。 ふと、大きな船をみつけた。ボーっと汽笛がなる。音だけ聞こえると不安になるかと思って、抱っこして船を見せてあげようと、ふと横を振り返ると、あの子がいなかった。 血の気がひいていくのを感じた。ここは砂浜ではない。人が降りられるところはないが、「ルールは無視で、できそうならとにかくやってみる」のが障碍児である。海から身をまもる防波堤は、私の胸ほどの高さだが、小さなでこぼこがあるから、本気でやろうと思えば飛び越えられるかもしれない。 後ろを見た。車が走る道がある。もし、車にひかれてしまったら。 わたし、おかあさんに、どう報告したらいいの? 私は下唇を噛んで走り出した。もし、自分が我が子の臨終に立ち会えなかったら、どれほどの絶望と怒りに彩られただろうか。もし、自分が我が子の臨終に立ち会えなかったら、こんなに穏やかな気持ちで仕事ができただろうか。 私はあちこち見渡しては走り出した。あの子の命と、お母さん、お父さんの人生がかかっている。絶対に、あの子を生きた状態で、両親のもとへつれていく。 携帯電話を手に取った。「そのためなら、なんだってやってやる」
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