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セカイ系ゾンビ
朝起きたら、世界がゾンビだらけになっていた。たぶん私のせいだ。全人類が滅んでしまえばいいと思ったから、全人類はゾンビになったのだ。
そんなセカイ系の脳内設定は捨て置いて、私は夏屋の手をぎゅっと握りしめる。幼馴染の彼の手はひんやりと冷たい。それもそうだ。彼はゾンビなのだから。
悲鳴があがって、また「人間」がゾンビに食べられている姿が視界に映りこむ。私はとくに驚きもせずにその光景を見つめていた。
夏屋に手を引かれ走る私の後を、ゾンビたちが追ってくる。腐臭が鼻を突いて、私は顔を顰めていた。
この真夏の炎天下の中では、ゾンビは腐りやすい。ドロドロに溶けた肉の内側から真っ白な骨をさらしているゾンビを見かけることもざらだ。
理性を失ったゾンビたちは、飢えれば自分の肉を引きちぎって食べる。道端で自然にみられるその光景に、私は何度吐きそうになっただろうか。
それでも不思議と夏屋は腐らない。私が毎日彼に保冷剤を貼ることを忘れないからだ。彼の寝床はと電気が切れない街外れの工場にある冷凍室だし、食事には私の肉を与えている。
「夏屋、ご飯だよ」
そう言って、私たちは住処になっているアイスクリーム工場の隅で食事を始めるのだ。夏屋はああと唸りながら、凸凹になった私の腕に食らいつく。私が痛がらないようゆっくりと歯で私の肉をはがしながら、彼はその肉を咀嚼していく。
ゾンビに噛まれたものは、ゾンビになる。でも、私は夏屋に噛まれていても、ゾンビになる気配は一向にない。たぶん、彼が理性をある程度もって私に接しているせいかもしれない。
「うう……」
夏屋は血が流れる私の手を乾いた舌で舐めながら、優しくさすってくれる。そんな夏屋の手から腕を放し、私は夕食のハーゲンダッツを手で頬張っていた。
ここ数日間、ずっとハーゲンダッツしか食べていない。それもそのはずで、食料を求めて街に出れば瞬く間に無数のゾンビたちに追われることになるからだ。
仲の良かったクラスメイトも、優しかった先生たちも、アイス以外のご飯を作ってくれたお母さんも今ではゾンビになって町中をううと唸りながら歩いている。
この街でたぶん、まともな人間は私だけ。夏屋は理性を持った比較的まともなゾンビと言えるだろう。
それでも電気や水道のインフラが止まることはない。どうも少数ながら生き残っている人間たちがいて、その人間たちを生かすために政府が動いてくれているらしいのだ。
政府関係のサイトは日々更新されていて、私たち生き残った国民に総理や諸大臣たちが毎日のようにエールを送ってくれている。だが、助けがくることはない。
東京もゾンビだらけだというから、日本の政治の中枢が青山からどこに移されたか私には知るすべもない。
この工場のハーゲンダッツが尽きたときが、私の命日になるだろう。そんなことをつらつらと考えながら、私は自分の腕に先ほど町で手に入れてきた包帯を巻きつけていた。
毎日夏屋に与えている腕の肉は、ほぼ確実に減ってきている。それでもここ数日で痛みをあまり感じなくなったから不思議だ。凸凹になった自分の腕を見つめても、何の感慨もわかない。
町にゾンビが溢れていても、それによって日常が壊れてしまっていても、私は絶望することなく夏屋と生きているのだ。
「変なの」
親兄弟がゾンビになったというのに涙一つ出てこなかった自分が恐い。まあ、ゾンビになっただけで死んだわけじゃないから、平気なのかもしれない。
それに私には、夏屋を生かさなくちゃいけない。それが今、私が生きている意味だ。
逃げる私に突き飛ばされて、ゾンビに噛まれた夏屋。私は助けてと叫ぶ彼を残し、このアイス工場に逃げ込んだ。そのときはもう無我夢中で、誰かを助けるなんてこと考えることすらできなかったのだ。
ゾンビたちが立ち去ったと、私は夏屋のもとへと戻っていた。もしかしたら、夏屋が無事かもしれないという愚かな願望を描いて。その願いは、ゾンビになった彼を見て打ち砕かれたのだけれど。
私のせいで彼は人ではなくなった。だから私には、彼を生かす義務がある。それが私の罪滅ぼしだ。
昔のことを考えながら包帯を巻き終わると、つけっぱなしにしてあるWEBラジオから、懐かしい曲が流れてきた。
世界がゾンビであふれかえる前に流行っていたヒット曲。淡い少女の恋心を歌ったその曲を聴きながら、私は夏屋の肩に自分の頭を預けていた。
「うう……」
不思議そうに夏屋が唸る。私はそんな彼の声に微笑みを浮かべ、声をはっしていた。
「私が夏屋に恋をしたから、夏屋はゾンビになったんだよ。分かるかな」
「うう」
「分からないよね」
彼と言葉のキャッチボールなどできようがない。眼を細めて、私は世界が滅びてしまえばいいと思った理由について考えていた。
私は夏屋という男子が好きだった。恋愛対象として彼を愛していたのだ。だが、彼はそんな私をブスといって拒絶した。
いつもそばにいた幼馴染にそんなことを言われるなんて思ってもみなくて、私は一晩中泣いたものだ。そして次の日、世界はゾンビで溢れていた。
ゾンビが溢れる街中を、手を繋いで彼と走った。彼は私を恋人のようにゾンビから守り、私を慰めてくれる。
無性に腹が立った。だから私は彼を見殺しにしたのだ。
そして彼は、私のモノになった。
「こんな風に夏屋を手に入れるなんて本当に皮肉だよね。バカみたい」
眼から涙が溢れる。恋人ですらない彼を見つめながら、私は彼の頬を両手で覆っていた。彼の唇に口づけを落とすと、ひんやりとした死体の感触が体中に広がる。
ああ、夏屋はもう生きてはいないんだ。生きていないのにここにいるんだ。
その矛盾が妙に悲しくて、夏屋が側にいることが妙に嬉しくて私は涙を流し続けた。
俺がゾンビになってから随分と時間が経つ。俺の唇にキスをして、涙を流す幼馴染を見つめながら、俺は自分の罪について考えていた。
彼女を振った。それが俺の罪だ。
傷つけるつもりなんてなかった。ただ、兄妹のように一緒に育った彼女から告白されて、素直になれなかっただけなんだ。その言葉が、彼女を壊した。
襲い来るゾンビめがけ、俺を突き飛ばした彼女の姿を今でも思い浮かべることが出来る。憎しみに満ちたその目を見て、俺は悟ったのだ。
彼女の心を俺が壊したから、世界が壊れたのだと。
そんなはずないと思いながらも、俺は彼女と過ごした数年間を走馬灯のように思い出していた。死んだはずの拾った子猫が彼女の中で息を吹き返したり、彼女を虐めていたクラスメイトが怪我をして急に彼女を無視するようになったり。
例をあげればきりがない。彼女の強い望みは、この世界において絶対的な法則として働いているのだ。彼女の望むように世界は存在し、それゆえに彼女が世界を呪えば、世界は荒廃する。
そして彼女は、世界を壊して俺といることを望んだ。俺には意思がある。でも、彼女と話すことはできない。彼女が無意識のうちに俺と話すことを拒んでいるからだ。
俺が自由に動けるのは、彼女が眠っているときだけだ。
俺に体を預ける彼女は、涙を流しながら眠っている。そんな彼女をそっと抱き寄せて、俺は彼女の唇に口づけを落とす。
もう、こんなことをしても手遅れと分かっていながらも、俺は彼女に気持ちを伝えたかった。本当は、ブスなんて言わずに好きだと答えてやりたかった。俺の一瞬の過ちが、彼女とこの世界を壊したのだ。
けれど、彼女が俺と喋ることを望まない限り、俺は意思のないゾンビを演じることしかできない。俺ができるのは、彼女の側にいることだけだ。
もしかしたら、この恋心すら彼女の望みの結果なのかもしれない。いや、それはない。俺は、彼女に告白されるよりずっと前から彼女のことが好きだったのだから。
だから、伝えられない言葉をいつも彼女が寝ているときに口にする。
「愛してるよ」
彼女への愛を口にする。その言葉が、彼女に伝わることはないけれど。
俺にできるのは閉ざされたこの世界で彼女と共に生きること。そう、これからもずっと彼女と一緒に生きていこう。それしかもう、俺に残された道はないのだから。
そっと彼女の頭を抱き寄せ、俺はひんやりとした彼女の唇に再び口づけを落としていた。
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