虚空に怒鳴れば 

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  虚空に怒鳴れば 

 夕方五時頃、大川は幼馴染の友人である野崎からの電話を受けた。今すぐ家に来てくれ。本当にマズ……と言いかけたところで電話が切れた。 かなり焦った様子であったが、取り立てて急ぐことはせず、ゆっくりと準備して野崎宅へ向かった。大川は野崎に急用だとしょっちゅう呼び出されては急いで向かってみると何ら大した用事はなく、飼っているハムスターが脱走したので一緒に探そうとか、 ラップ音が聞こえた気がしたのでとか、酷い時には頬を桃色に染めながら寂しかったのでなどと幾度となく肩透かしを食らい、これ以上はもう透かす肩が無くなってしまったと、大川は野崎がなんと言おうと最近は相手にしないのであった。 それを悟った野崎も野崎で、なんとかして大川を早く来させようと電話口で真に迫る焦りや恐怖、落胆などを七色の声を使って演じて見せた。  大川は高円寺駅の南側に建つオートロックの物件に住み、一方、野崎はというと家賃三万三千円のところ大家に無理を言って三万円まで安くしてもらった風呂無し共同トイレ、目の前の道をトラックが通るとガタガタと揺れる北側の木造アパートにハムスターの諭吉と住んでいた。 二人の家までは徒歩十分といったところか。大川は駅を抜けると、北口ロータリーの信号を渡った先に激しい身振りで虚空を怒鳴っている老人が視界に飛び込んできたため困惑した様子で歩調を緩めた。何やら妖しげな人物であったから、このまま真っ直ぐ横断歩道を渡ろうか迂回するか悩んだ末、左手の八百屋の方の通り道へと変更した。  老人の予測困難な振り付けと放たれる怒号は虚空を切り裂き、見る者の視覚と聴覚から脅威と戦慄を与え、円形状排他的空間を展開することにより人波に飲まれることはなかった。 老人にとって怒鳴ることは鳥が自由自在に天高く舞うことと同義であるかのようだった。繰り返し、根気強く力強くそれでいて伸び伸びとした怒号は高円寺に響いていた。 そそくさと脇を通りすぎる子連れの主婦は眉を顰(ひそ)め、母の衣服の裾を掴み怯える子供の目を覆う。スーツ姿の中年男性は冷ややかな視線を送り、若者は後ろ指を指し動画撮影をしていた。 カラスの群れは騒ぎ出し、車に轢かれる事も厭わない鳩達がこぞって逃げ出す。八百屋の方へ飛び立った一羽の鳩が脱糞。大川はすんでのところで被爆を回避した。 かごに陳列された青々しいキャベツにべとりと糞(くそ)が付く。通りがかった客を装った金も持たぬ卑しき者が此れ千載一遇の難癖の好機と嗅ぎつけて、鬼の首を取ったように糞の付いたキャベツを天に掲げる。 すると、店主と卑しき者で糞付きキャベツを賭けての大喧嘩となる。昆虫が樹液の甘い蜜に集(たか)るが如く、やいやいと野次馬の国から野次馬らが集まってくる。 野次馬らは丸めた「全ての無職の聖書、バイト探しのan」を片手にやいやいと喚きながら大喧嘩のゆくえを見守った。やいやいに対してわあわあきゃあきゃあ、うけるんですけどと女子供は丸めた「全ての女性の好奇心に応えるウィークリーマガジン、否。右に倣わぬものは火に炙れ、鉄槌を下せ、裁きの雷(いかづち)を。のanan」を両手に、乗り付けたかぼちゃの馬車から湧いて出てくる。 喧々囂々諤々悶々(けんけんごうごうがくがくもんもん)平々凡々子々孫々しっちゃかめっちゃかのお祭り騒ぎの血祭り騒ぎでわっしょいわっしょい。浮かんで沈んで宙を躍るは糞付きキャベツ。 嗚呼チャカポコチャカポコ。区民通報、警官到来即発砲のち免職オーライ、愛読書はもちろんan。それでも止まぬ久作音頭。嗚呼チャカポコチャカポコ。 押し合いへし合い糞付きキャベツは人の手めぐり。葉っぱ剥がしの弄び。店主と卑しき者も肩組みチャカポコ。裸体の男女もチャカポコチャカポコ。糞付きキャベツは野次馬らにanで叩きのめされた挙句、わっしょいと放り投げられ今度は女子供にananでせいやと突かれ見るも無残、跡形もなくなってしまった。 わっしょい。あれよあれよと人は増え、道に溢れ出し、もはやこの大変な乱痴気ぶりは収拾不可能であった。大川もまた糞付きキャベツと似たようなもので、わっしょいとanでこめかみ辺りに物理的なタイプの洗礼を受けるとすぐさまに、針金みたいな声で超うけるんですけどなどと高笑いされananの裁きを身体のあちらこちらに受けた。道を進むことはついには叶わず北口ロータリーの横断歩道まで押し戻されてしまった。  不条理の渦に呑み込まれ、ボロ布のような出で立ちになってしまった大川の目尻から流れる一筋の涙が沈んでいく夕日に反射して煌めいていた。悲しみの涙ではなかった。 出鱈目なくせに絶対的に強大な暴力に抗いの余地なく跪(ひざまず)き、自尊心が泥濘を這いずり回る屈辱の涙を流し思った。 あの狂おしい人たちが、屈強な身体を誇示するために頑なに肌を露出する人や、眉間に寄せる深い皺がさらに深まり二人に分かれてしまいそうな人や、戦闘前に恍惚の表情でナイフを舐める人や、苗字が愚地(おろち)とか、革ジャンのモヒカンだったりしたら、どんなに救われたことだろう。 到底敵わないと諦めもつく。大川は袖口で涙を拭い、狂おしい人たちに与えられた屈辱から湧く怒りの矛先で野崎を貫くべく先を急いだ。 しかし大川が狂った連中に狂った仕打ちを受けている間に、猛り狂った連中で高円寺一帯は埋め尽くされ、歩(ほ)を進めようにも進めない。右へ左へ人波に流されていると今度はえいさえいさと担ぎ上げられてしまった。 まるで波に飲まれたように身体の自由が許されず、大川は連中の頭上を転がされ捻られ弄ばれ、どちらが天地なのか認識できないありさま。だんだんと気分も悪くなりせめてもの抗いを。 貴様らに天誅でござると吐瀉物を頭上でぶちまけてやろうとした。 するとわっしょいわっしょいの騒音の中に聞きなれない普段聞きなれた声が耳に入った。 「おーい大丈夫かー」  廻転を続ける大川はこれまさしく野崎の声であると不本意ながら喜んだ。しかし気分が悪い。 大川は薄れていく意識の中で野崎を発見した。野崎もまた担がれ連中の頭上にいたが、わっしょいの波を乗りこなし悪戦苦闘している大川を薄ら笑いで眺めていたのだった。 大川はその表情を見逃さなかった。 声が聞こえた際は、やぶさかではあるが嬉しさがこみ上げた。しかし、こんな忌まわしい事態に陥った諸悪の根源であるはずの野崎がなぜ俺をみて薄ら笑いを浮かべている。 こんなことってあっていいのだろうか。 それぞれ限界を迎え、こみ上げてきた激しい怒りと、吐瀉物を廻りながら盛大にぶちまけた。 「お前なに笑ってんだ殺す確実に」 「うわ汚え。お前汚いよ吐きながらしゃべるな」 「出来る限り苦しめて殺す」 「そんな怒るなって今助けてやるから。あんまり触りたくないけど」 そう言って野崎は大川のもとへ泳ぐように近づいて、様々なものがこみ上げ終わった大川の腕を掴み、空を飛ぶような体勢に整えてやった。 大川は胸をなで下ろしたが、単独ではまたもや酷いことになることが容易に想像できたので、野崎の腕をしっかりと掴んでいた。 「なんだかドキドキしますねえ」と野崎はまた薄ら笑った。 大川は茶々に応える余裕はなかった。 「元はと言えば、お前が用もないのに俺を呼び出したりしなけりゃこんな目に合ってないんだぞ責任を取れ土に還れ」 「いやいや今回は本当にマズかったんだって。電話でも言っただろ」 「なんだ言ってみろ」 「いやこれよ。この騒ぎ。いきなりわっしょいって、押しかけてきて運び出されたんだぜ」 「お前と係ると本当にロクなことがない」  ふたりは手を繋ぎながら人々の頭上を泳いでいると、人混みの中にぽっかりと穴の空いているのを発見した。穴の真ん中には人がいた。それは怪しげな身振りで虚空を怒鳴る老人であった。 ふたりは、老人の怪しげな動きとチャカポコチャカポコという怒声に吸い込まれるようにグングンと引き寄せられていく。 「なんかあの爺さん怖いよ俺。やだやだ」 野崎の抵抗むなしく、ご丁寧に老人の目の前にふたりは降ろされた。狂いきった人々に囲まれて当然逃げ場はない。 様々な怒鳴り声。怒鳴られ声。怒鳴る声。怒鳴り声に怒鳴り声で怒鳴り声だ。 ふたりは恐怖のアマリか耳鳴りがアタマガ……鈴の音が…………ハテ……鈴ナンテ……鳴っていたかしらん……。  老人は怒鳴りつぶやく。 「友人はいいものだナア。にぎやかなコトは楽しいナア」  嗚呼チャカポコチャカポコ。 大川野崎のワッショイワッショイ。 産声上げたドグラにマグラ。 現(うつつ)の狂気に未来をカエス。 受難の真実(ほんと)より虚構の安楽地。 思考を奪われ、五感の衰弱、身体の放棄、精神(こころ)の腐敗、二度と出られぬキチガイ騒ぎ。 ステキナ処へようこそカンゲイ。 ワッショイ地獄じゃ……ワッショイワッショイワッショイワッショイ…………。
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