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「っ!」  足を踏み入れて早速、周は言葉を失った。  八畳ほどの部屋には、中央に小さな噴水のような台座があり、部屋の正面には仏像が置かれている。一見殺風景な部屋ではあるのだが、この部屋の空気はなにやら、他とは違う気がする。しかし、何が違うのか・・・・それがわからない。正面に置かれたその仏像を見たことがあるか・・・と、聞かれても周にはこれまた、よくわからない。これまでそんなに注意深く仏像を見たことがないから、違いがわからないのだ。  しかし、先程三蔵が言っていた降三世明王がそれだということはなんとなくわかった。  ___降三世明王  その表情は憤怒に満ちていた。  正面に向けられた顔の他に、左右にそれぞれ顔がある。髪は炎のように燃え逆立っている。手は八本。左右の二手で印を結んでいる。それぞれの手にも何かを持っているが、周にはそれがなんなのかよくわからない。  そんな周の表情から察したのか、戒が隣でふわりと笑った。 「降三世明王は、過去・現在・未来の三世と貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴の三毒を降伏させる明王なのですよ。結ぶ印は降三世明王の印。右手に持つのはそれぞれ、三股鈴(さんこれい)(せん)まぁ、俗にいう矢だね。それから、剣。左手には三股戟(さんこげき)、由美、索。左足で踏んでいるのは大自在欲王(だいじざいよくおう)シヴァ神って言った方が馴染みがあるかな。右足で踏んでいるのは、王妃烏摩(うま)の乳房だね」 ___うぅ・・・・全然、わからない・・・・  周は愛想笑いを浮かべながらも、頷いた。おそらく戒はとても丁寧に説明をしてくれたのだと思ったが、それでもわからない自分にもはや欠けているものが何かさえわからない。 「空くん、あれ・・・持ってきた?」 「おう、完璧だよ」  三蔵に言われて空が出したもの。それは土人形のようなものだった。十五センチほどの大きさのその人形には、まるで耳なし芳一を思わせる程に体中になにやら呪文のようなものが書きめぐらされている。  三蔵が顎で中央の台座をくいっと指し示すと、空が噴水のような小さな台座に溜まった水にゆっくりとその人形をつけた。 「あの人形は、なんなのですか・・・」  そう聞いてふいに隣を見上げてから、少し後悔した。  さっきまで戒がいたはずのそこにいたのは淨だった。案の定、淨は面倒そうに眉を顰めた。 「まぁ、見てりゃわかるだろ」 「そ・・・そうですよね・・・・」  淨だとわかっていたら聞かなかったのに・・・・そう思いつつも、それを口に出すことはない。 「周、お前下がってろ」  不意に淨に言われ、周は入ってきた扉にピッタリ背中をつける格好になった。これから何が始まるのか・・・・・なぜか、周も緊張してきた。  四人はそれぞれ部屋の四隅に立った。三蔵だけがいつの間にか手に錫杖を持っている。  その他の三人は手をクロスさせ互いの小指を絡め、人差し指を軽く立てている。よく見ればそれは、降三世明王が結んでいる印と同じものだった。  張りつめた緊張の中、三蔵が錫杖で床を突いた。遊環(ゆうかん)がぶつかり合い、シャランという音が響き渡る。  最初に声を発したのは、三蔵だった。 「ソンバ・ニソンバウン・バザラ・ウンハッタ・・・・」  それに遅れること数秒。戒が三蔵に続く。 「ソンバ・ニソンバウン・バザラ・ウンハッタ・・・・」  更に数秒遅れて、淨。 「ソンバ・ニソンバウン・バザラ・ウンハッタ・・・・」  最後は空だった。 「ソンバ・ニソンバウン・バザラ・ウンハッタ・・・・」  気づけばそれは輪唱の様にも聞こえ、周は不思議な気持ちになった。  どのくらい経っただろうか・・・。数秒にも数十分にも思えた。  と、中央の台座付近の空気が震えだす。もちろん、この部屋に窓などはない。初めは目の錯覚かとも思った。けど、違う。  中央に姿を現したのは、店に来たあの男だった。  でっぷりとした腹、ギョロついた目玉に突き出た唇はへの字に歪んでいる。  それが実体を持った者なのか、周にはわからない。しかし、確かにその男はそこにいた。  男自信、なぜ自分が突然にこんなところにいるのかわからないと言った様子だ。ただ、先程と違うのは______。  自らに纏わりついた餓鬼の姿が、今は男にも見えているようだった。それに気づいた男は、一気に顔をひきつらせた。  そうして、周囲で呪文を唱える三蔵たちを見て横柄にも命令し始めた。 「おいっ!これはなんなんだ!このおかしな生き物をどけろっ!お前だ!お前に言っているんだ!聞こえているんだろっ!早くしろっ!」  三蔵は呪文を唱えるのをやめて、男を真っすぐに見た。他の三人は唱え続けている。 「坂田昇だな」  そう言って三蔵は錫杖で床を突く。 「あぁ?てめぇは誰だ」 「貴様はその身に宿る煩悩を肥大化させすぎた。それらは貴様の煩悩に群がる餓鬼どもだ」 「なっ、何をいってやがるっ!早くこれをどけろっ!」 「これより貴様の禊を執り行う。自らの罪を認め悔い改めるなら貴様にも道は残されよう」  坂田昇と呼ばれた男は、ぎょろりとした目玉が零れ落ちんばかりに目をかっと見開き、顔を歪ませた。 「てめぇっ!このガキ!黙って聞いてりゃなんだ!俺を誰だと思ってる!お前のような奴、どうにだってしてやれんだ!坊主か?妙な成りしやがって、坊主ごときがこの俺に盾つこうなんて百年はえぇんだ!」  相変わらずの罵詈雑言。この男はいつもこうなのだろうか・・・・いや、こうだからこそ、これほどまでに餓鬼が群がっているのだろう。  一方、三蔵は男の罵声がまるで聞こえていないかのように淡々と男に語り掛ける。 「周囲の協力者たちに、罵詈雑言を浴びた挙句、給料もろくすっぽ払わなかったな?」  三蔵が錫杖で床を突く。 「あぁ?何が協力者だ!俺が金を払ってんだ。俺の役に立つのが当たり前だろっ!どいつもこいつも無能な奴らばかりだった。だからクビにした!それの何が悪い!」 「そもそも貴様は、彼らに対し契約書を交わすのを意図的に嫌った。契約書を求めた社員には、全く違う話題でまた喚き散らし、最後まで契約を書面にて交わさなかった。その曖昧さを利用して、最後には協力者の外部理事たちにまで一方的に営業ノルマを課して、罵声を浴びせたのではないか?」 「何をいっている!金を貰っているんだ!契約をとってくるのは当たり前のことだろ!俺は悪くない!悪いのは無能な奴らだ!」  同じようなやりとりが暫く続いたが、結局坂田昇が自らの非を認めることはなかった。それにしても、あの短時間で空はどのようにして、こんなにも細かい内部事情までしらべあげたのだろうかと、周は感心していた。  「貴様が毎日呼び出しては、罵声を浴びせている社員の男・・・・この男に会社の資金を借りているのではないか?」  三度、三蔵は錫杖で床を突いた。 「あぁ?だからなんだ!」 「この男に毎日罵詈雑言を浴びせ、精神を崩壊させた挙句クビにしているようだが、この金は返していないな?」 「もともとは俺が給料としてやった金だ!あいつは無能で、本来給料なんて貰う価値もねぇ男だったんだ!それに、奴は離婚している!金などあいつには必要ねぇんだよ!」 「そうか・・・・・しかし、世の中の道理はそうではない。貴様は自らの行為を悔い改めなければならない」 「悔い改めるだと?それなら、あの無能男に言うんだな!」  坂田昇の顔は初めとは比べ物にならないくらい、変形していた。ギョロついた目玉は今にも落ちてしまいそうなくらいに剝いている。唇は耳まで裂け、顔の肉はまるで沸騰したようにふつふつと気泡を発している。 「坂田昇、貴様に問う。従業員の名義で物件を買いあさっているようだが・・・」 「グルルルルル・・・・・」  それは既に言葉にすらなっていなかった。耳まで裂けた口元からはだらだらと涎を垂らしている。周はその恐ろしさに身を竦ませた。もはや人の姿さえしていない坂田が三蔵に向かって、飛び掛かってきた。三蔵は顔色ひとつ変えることもなく、手にした錫杖で坂田を払いのける。打たれた坂田は再び餓鬼たちのいる中へ、その身を沈ませた。  次の瞬間。  坂田昇の体が、まるでスライムの様にぐにゃりと歪んだ。着ているものがはだけ素肌を露わにしたが、その色はどす黒く濁っている。ブクブクと体のあちこちに気泡ができた傍から弾けて、中から緑色のどろりとした液体を垂れ流した。やがて両手を地に着き、獣のように吠える。その肉を周囲に群がる餓鬼どもが喰らい始めた。  周は胃からこみ上げた酸っぱいものを、必死に抑えようと口に手を当てた。  腐臭が漂う。  生きながらにして餓鬼に喰われて、坂田はうめき声を上げた。 「ぅううううう・・・・・ぐるるるるるる・・・・」  しかしそれさえも、既に人の言葉には程遠いものである。  それでも餓鬼たちは容赦なく坂田を喰らう。肉が削がれ骨が見えると、餓鬼たちは直接その骨にかぶりついた。バリンと骨の砕け散る音が響く。凄惨な光景だった。そうしてやがて坂田昇の全てがなくなった時、餓鬼の姿も消えた。  「もういいぞ・・・・」  三蔵のことばで、戒、空、淨の三人が呪文を唱えるのを辞めた。  戒は哀し気に目を伏せ、ため息を零した。  淨はいかにも嫌なものを見たという風に顔を顰め、舌打ちをする。  空は両手を頭の後ろに回し、けろりと「やっぱだめだったかぁ」と言った。  気づけば周は腰を抜かしていた。既に坂田の姿はないというのに、全身の震えが止まらない。  そんな周を見た淨が面倒そうに舌打ちをしたかと思うと、その肩に軽々と周を担いだ。 「えっ、ちょっとわぁっ!」 「うるせぇ、大人しくしてねぇと落ちんぞ」  そう言われて周は仕方なく抵抗を辞めた。が、結局ひとりでは歩けなかったので、内心少し助かったと思っていた。
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