第二章 それはいつかのこと

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 国立大学医学部の面接試験は常軌を逸した者を除くために行われる。将来医師となるに相応しいか試す訳だ。  ここで評価されるのは人格や品位だけではない。それまでの経歴を見られるんだ。多浪や再受験などで年齢が高かったり、高校を中退したりすると面接試験で低い評価を受ける場合がある。筆記試験の成績が良好であっても不合格とされる可能性があるんだ。  過去、裁判沙汰にもなっている。とある大学は、五十代の女性に対し、筆記試験で十分な点数を取っていたにも関わらず不合格とした。別の大学では高認資格を取得して受験した方に面接点0点をつけた。 「常軌を逸した者を除くとはそういうことだ」 「そのような差別がのさばっているのですか」  天城は声を震わせた。 「学部の後はまず研修医として働くわけだが、今でもハードな職場が多いらしくてな。年齢が高かったり高校を卒業できなかったりした者は、潜在的なリスクであると見做されるそうだ。研修先を用意したり、赴任先を斡旋するのは大学側だからな。責任問題の芽は最初から摘んでおくということらしい」 「年齢や学歴での差別は職業選択の自由に反しています。そも斯様な選抜を大学入試で行うのは教育を受ける権利の侵害にあたります」 「俺もそうだとは思う。が、仕方のないところもある。医学部は研究の場であると同時に医師を養成する機関でもある。医師一人を育て上げるのにかかるコストは億を下らないという。私立大医学部の学費を見ると頷ける額だ。国立大の場合その費用は税金から出ている。  面接官、入試の責任者、学部の責任者、お役人と、責任はどこまでも上り詰めていく。選抜する側が避けたいのは、『コストをかけて育てた学生が医師として不適格であったと判明すること』よりも『いざというとき、その学生に追及のポイントとなる瑕疵があること』だ」 「遠回りは瑕疵であると、そう仰るのですか」 「それが世間の見方だよ。俺に、俺たちにできるのは瑕疵を圧倒する可能性を示すことだ。特に俺はな。ガチョウは自分の可能性を信じさせなくてはならない。他人の金で学ぶとはそういうことだ」  俺がそう言って頷いても、天城は苦い顔を一向に崩そうとしなかった。 「あなたは先方の擁護ばかりしています。どちらの味方なんですか、もう!」  そしてついに地団駄を踏み始めた。  俺は笑いながら天城を宥めたよ。 「この話をするとな、みんな怒ってくれる。俺の怒る暇がないんだよ」  天城は我に返って「度々すみません」と縮こまり、それからまた歩き出した。 「伊東さんは随分と冷静ですね」 「もう一通り感情はぶち撒けた後だから。あとは先生のおかげかな」 「先ほど仰っていた予備校の先生ですか?」 「いや。バイト先の院長先生だよ。帝塚(てづか)先生といってな、祖父とは古くからの友人なんだ。その縁でお世話になっている。さっきの面接云々の話は帝塚先生からの受け売りだよ」  帝塚先生は関西の国立大学出身で、学生の頃は大学に残って研究をしたいと志していたらしい。だが色々あって結局今の奥様に婿入りして名古屋の町病院を継いだそうだ。  先生が学生だった1970年頃というと、ちょうどインターン制度が終焉を迎えた頃だ。インターン制度というのは、医学部で課程を終えた学生が大学附属の病院など実地で臨床の経験を積む制度のことだ。その二年間はほぼ無給の上にアルバイトも禁止されていた。現代の奴隷制度と呼ばれていた所以だな。  東大の安田講堂に機動隊が放水している映像を見たことがあるだろう。学生運動というやつだ。日米安保条約の延長に反対したことから安保闘争とよく呼ばれるがな、学生の主張はそれだけではなかった。インターン制度の廃止も叫ばれていたんだ。主導した団体の名前から青医連運動と呼ばれるらしい。  結果、インターン制度は廃止され、代わりに研修医制度が始まった。研修医も辛いというがな、それでもインターンの頃に比べると大分ましになったそうだ。  帝塚先生はこの青医連運動に参加していた。そのせいで大学に目をつけられたんだ。医局には居られなくなり、生まれ故郷の大阪で開業することもできず、名古屋に来たという。  『気に食わんことがあってもな、焦ったらあかん。まずは獅子の身中に飛び込まな何も変えられへん。僕は少し急ぎすぎたんやな。おかげで大阪におられへんようになってもうた』と、先生はそう言って笑っていた。 「俺だって何も思わないわけじゃない。いつかちょっと言ってやるさ」  天城は「是非言ってやってください」と満足気に頷いた。 「……正直さ、俺は帝塚先生のおかげで何とか踏みとどまれてる」 「将来を思えばこそですね」  俺は「いや」と首を振った。 「そんな先の、そんな不確かなことだけではやっていけないよ。学校に通って、働いて、予備校に行って、家のことを片付けて、金のことを考えて。俺の今は今でいっぱいだ」 「……」 「先生はさ、暇を見つけては話をしてくれるんだ。俺を診察室に呼びつけてな。医学の動向とか、大学の医局はこういうところだとか、高尚な話はもちろんだが、幻滅するような下世話な話もたくさんしてくれる。そんな話を聞いているとな、遠い将来が地続きにあるものだとそう思えるんだ。帝塚先生がよく言うんだよ。『仰げば遥けし、伏せば道あり』ってな」  そうしているうちに二組の教室が見えてきた。 「……なあ、天城。俺は欲張りかな? 涼歌も俺もなんて」 「はい。欲張りです」  天城は明瞭な発声でそう言い切った。 「素晴らしいことです。望みは高く、欲は目一杯にまで張っておくべきです。望外の喜びなど降って湧くものではないのですから」 「……俺に、できるだろうか」 「できます」  俺の隣で、天城は真っ直ぐに前を見据えていた。 「できます。私にできて伊東さんにできない道理がありましょうか」 「その自信はどこからくるんだ」 「私には全てを肯定してくれる人がいます。だからできます。伊東さん。私はあなたの全てを肯んじます。だからあなたはできるのです」 「そうか」 「欲を張れば周りに気苦労を押し付けます。蛍雪の功とは申しますが、木の葉枯れ落つる冬の厳しさに体を壊すことのないよう、くれぐれもご自愛ください。あなたお一人の身ではないと努々お忘れなさいませんように」 「ああ」  俺の返事は素っ気ないものに聞こえていたと思う。  そのときの俺はこみあげてくるものを抑えるのに必死だった。  俺の選択に、母も涼歌も反対した。塾長は止めたし、帝塚先生もよい顔はしなかった。  天城だけだった。  天城だけは。  どれだけ遅い歩みでもいつかは辿りつくものだ。  一組と二組の教室、その境目に俺たちは立った。 「ありがとう」 「こちらこそ」 「天城も気をつけてな。声楽も身体が資本だろう」 「はい。伊東さんも」 「じゃあ」 「さようなら」  そうして俺たちは袂を分かった。
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