納涼下校

1/2
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 外へ出ると、それまでの体の芯から冷えそうな冷風とはうって変わり、ねっとりとした生温い風が私の肌にまとわりついてきた。時刻は三時三十分。太陽は未だ高い位置から滝のように汗を流す人々を嘲笑うかのように熱気を発している。  まったく、いくら久々に会えるからって、予備校が終わってすぐの時間に呼び出さなくても良いのに。暑い中二十分も歩く私の身にもなってよね。  まだ学校へ来てからたったの三十分。折角勉強のスイッチが入ってきたところだったのに、と私は二週間ぶりに会う彼氏に心の中で文句をぶつける。まあ、待ち合わせを学校の最寄り駅にしてくれたから、そこは感謝しているが。  今は夏休み真っ只中。全国の同級生達は各々(おのおの)志望大学への合格に向けて一層勉強に拍車をかけていることだろう。そんな中、呑気に恋愛なんてしている暇ではないことは分かっている。だから夏休み中はLINEのやり取りも多くて四往復程にしてるし、会う頻度も極力減らしている。それでも週に数時間、彼氏のために時間を割くことには受験生として多少の抵抗があった。  にしても、だ。この暑さは何なのだろう。  ワイシャツに染み込んだ汗がたった三十分エアコンにあたっただけで乾く筈もなく、一歩一歩足を進めるごとに私の背中にピットリと貼り付いてくる。 暑さを紛らわせようと、私は単語帳を開いた。受験生にとっては移動中も貴重な勉強時間だ。  大通りに出ると、車が多いおかげか強めの風が吹いていた。今にも私を焼き殺さんばかりの太陽の熱と一瞬で私を溶かしてしまいそうなアスファルトの挟み撃ちでかなりの苛立ちを覚えていた身体が、少しだけ落ち着きを取り戻す。 と、思ったのも束の間。暑さに気を取られていた私の手から、風に煽られた赤シートがするりと消えた。 「ああっ?!」  情けない私の悲痛な叫びは、赤シートと共に青い空へ吸い込まれていった。  「あーあ……」  駄目だ。今ので完全にやる気失くした。  仕方なく私は単語帳を鞄にしまうと、たまには違う道で帰ろうと、いつもより一つ手前の信号を待った。不幸にも周りに日陰はなく、より一層私の苛立ちを増幅させる。こんなことなら、いつも通りの道で帰れば良かったかな。まあ、あそこも日陰ないんだけど。  信号を渡るとそこはちょっとした並木通りのようになっており、舗装された道の両端(はし)は草木が生い茂っていた。普段なら緑溢れる光景に心躍るところだが、今日は暑さのせいかけたたましいセミの鳴き声しか耳に入らない。  「……っああうるっさい!」  と言いたくなるのをぐっと堪える(こらえる)。いくら暑いと言えど、ここで叫んで周りからの冷ややかな視線で涼む……なんてのは流石に御免だ。  並木通りを抜け、いよいよ駅……というところで、私はふと道路の下に目をやった。  へえ、ここの下って川だったんだ。  川と言っても人工的なものらしく、岩で出来た川は綺麗に整備されている。しかし岩の形はまばらで周りには緑も多く、人工物らしさは殆ど感じられない。  ちょっとだけ、涼んで行こうかな。  幸いまだ待ち合わせの時間には余裕がある。少し水辺を通って涼むくらいなら大丈夫だろう。  そうして、私は階段を降りそっと川辺りにしゃがんだ。たった二十メートルくらいの階段を降りただけなのに、それまでの太陽の熱もアスファルトに溶かされる感覚も無い階段の下は、まるで疲れた人の前にだけこっそり現れる楽園のようだった。人が多すぎず、少なすぎないところも良い。多すぎて騒がしいのは嫌だが、かといって人が全く居ないというのも物寂しい。少し離れた場所から聞こえる小さな子供の笑い声と水の流れる音が入り交じり、なんとも言えない安らぎを感じる。  ……ちょっとくらい良いかな。  私は黒いローファーと校則指定のグレーのソックスを脱ぐと、さっきまでしゃがんでいた岩にそっと腰を下ろした。水は冷たすぎず、かといってぬるいわけでもなく、私の足元を優しく包み込んだ。  あー、気持ち良いかも。なんだか心が穏やかになっていく感じがする。  水面(みなも)に反射する光を見ながら、私は静かに目を閉じる。水の流れる音、風で木がなびく音、セミの鳴き声が重なって、まるで夏を閉じ込めた風鈴が鳴っているように聞こえた。  そっか。  さっきまで私が浴びてたあの悪魔のような太陽の光は、こんなに綺麗なものだったんだ。  あんなに五月蝿く感じてたセミの鳴き声は、こんな風に夏を味わせてくれるものだったんだ。  暑さでイライラしている時は、太陽の光もセミの鳴き声も、ただの煩わしい夏の弊害だとしか思えなかった。少し休んで、心を落ち着けるだけで、世界がこんなに変わるだなんて思ってもみなかった。  その時、ふと目元を覆われた感覚に襲われた。完全にひとりの世界に酔っていた私は思わず「ひゃっ」と間の抜けた声を出す。  「なーにしてんの、遥」  顔を上に向けると、そこには駅で待ち合わせしていたはずの人が私の頬を触りながら笑みを浮かべていた。  「遥斗……なんで此処に?」  「約束の時間から十五分経っても来ないから、学校に迎えに行こうとしたんだよ。そしたら、見慣れた後ろ姿が気持ち良さそーに水遊びしてたからさ。人を灼熱地獄に放っておいて」  慌てて時計を見ると、時刻は約束の二十分後を指していた。この時がゆっくり流れるような場所に居たせいで、どうやら体内時計が狂っていたらしい。  「ごめん! お詫びにアイス奢るから許して!」  「おー、コンビニで一番高いやつ奢らせてやるよ」  「とか言いつついつものアイスバーでしょ」  私はタオルで足を拭き、ソックスとローファーを履いた。階段を上がると、先程と同じ灼熱地獄が私達を襲う。しかし、今度は不思議と苛立ちは感じなかった。私は少し張った声で  「あっついなー!」  と言いながら、遥斗の手を取って大股で歩き出した。  「お前、なんでそんな元気なんだよ……」  「んー? ……暑いのも良いなーって思えたから!」  暑さで参ってしまった時は、ほんの少しだけ涼んでみる。たったそれだけで、また暑さを少しだけ耐えられる。暑さから逃げるんじゃない。暑さを耐える為に、ほんの少しのご褒美を。 それは人生も同じ。頑張ってばかりではいつか倒れてしまう。ほんの少しだけ、涼んだって良いじゃないか。  いつの間にか紅く染まりかけた空は、さっき私が落とした赤シートのようだった。  今日は、勉強は空にお預けだ。  「今日はデートだー!」  暑いときは、身も心もほんの少しだけ、涼もうよ。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!